子供のある頃
自分がしたことで自分を責めたり
反省したりする自分が出てきたため
苦悩する自分が少しづつ出てきました
その苦悩する自分に
思いっきり意識を向けたのが
小学校高学年の時です。
この時
自分の苦悩と向き合い
思いっきり苦悩しました
そしてどうすればいいかを
自分に問い続けました。
ほぼ1日間
頭を抱えて悩み
どうすればよいかを問いまくって
出た答えが
「自分を捨ててなんでも心から喜んで対応しよう」
でした。
それまでは何も考えてなくて
幸せでした
幸せだと実感する幸せではなかったけど
幸せでした
当たり前に幸せだったので
「幸せ」と言葉にすることはなかったけど
この言葉にできない幸せな幼少期のおかげで
苦悩する自分が普通とは思えず
苦悩する自分をどうにかしたいと思い
そして完璧に幸せな世界はあると
思っていました。
(幼少期の経験によりその世界はある、と確信)
苦悩する方がおかしいと
幸せが当然だという思いで
「自分を捨ててなんでも心から喜んで対応しよう」
という生き方をする、と決めました
そこからの道では
幼少期の幸せな記憶もあったからか
決してあきらめませんでした
幸せが当然で
苦悩するのはおかしい
これは小さなころ感じていた
素晴らしい世界があったからかもしれません
だから人生の中で
本当に苦悩したのは
この小学校高学年の
「自分を捨ててなんでも心から喜んで対応しよう」
という自分の生き方を決める前の
1日間だったかもしれません
その実践を始めてから
辛いことはあったかもだけど
自分を捨てていたので
経験としては残っていないのです
経験する自分も捨てていたから
なんだか不思議な人生だったな
ちなみに考え抜いて決めた生き方が
なぜ
「自分を捨ててなんでも心から喜んで対応しよう」
になったのかというと
まず
自分が誰かに何かを頼んだ時
喜んでしてもらえたらうれしかったから
そして悪い自分はいらない
と思ったから=自分を捨てて
自分じゃない誰かについて
あれこれ言うのは嫌だと思ったから
自分が思う
ということは
相手もそう思う可能性がある
と思ったから
自分が思わなければ
相手もそう思わないと
捉えられるから
=自分の思いを捨てる
(例えば自分に「嫌」が無ければ
相手も「嫌」はないかもしれない、、
しかし、自分に「嫌」があれば
相手に「嫌」がある可能性がある。
大げさに言えば
自分に嫌と言う思いがあったなら
この世界に嫌という思いが存在するということ。
私は「嫌」の存在を許しませんでした
ちなみに自分以外の人に「嫌」が存在することは
なんとも思いませんでした。
自分以外の人に何も求めていませんでした。
実践中
「嫌」という思いがある人に
「嫌」を無くすべきだと主張したり
強要することは一度たりともありませんでした
あくまで自分の中だけのことでした。
自分に厳しく、他人に優しく、がモットーでした
あ、言い方を変えれば
他人がどう思おうが関係ない、自由
かな、、、。
宗教とかで争いが起こるのは
自分以外の誰かに
何かの思想を強要するからではないかと思います。
私としては
すべて自分自身の問題である
悪いのは私で他の誰でもない
というスタンスでした。
そして自分の善を貫きました)
今、
「自分を捨ててなんでも心から喜んで対応しよう」
の実践を決めた理由について
全部思い出すことはできないのですが
少なくとも
1日かけて
全身で悩みぬいた結果
得た答えでしたので
かつての自分にとっては
まちがいない生き方でした
これが自分で考えて自分で決めた
生き方でした
ほんと不思議な人生だったな
有難い人生でありました
@(*・ω・*)ポッ