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「思考の起源」を精神性の核に持つ人間の思考は、現実に生きようとして、自分の夢を持ちます。
自分が自分を作ろうとして、持つようになるものです。だから、持つのが当然の夢の話しをするなら、こうした自分の主題にすべき夢の話しです。

社会では自分の夢の話しばかりするわけにはいきませんが、個人が社会の役に立つ限り、個人が夢とすることをもてはやすことになる。

つまり、社会が人の夢を「まとも」に扱うことにするかどうかは、実は、社会の側に役に立つかどうかで決められている。

だから、素朴に考えた時のように夢さえあればいいというものではありません。

と言っても、「人の側」で持つ夢は、社会のことなど考えていないことでしょう。
「私の夢」は、私の夢であればいい話しのはずだということになるのでしょう。

それは、人は、やはり「個人」だからです。
その個人から、すべての夢は始まります。個人の夢は、それだけでは社会の役に立つものとなりきれないとしても、それでも夢を持つ力は個人に源泉がある。
これがあって、やがては社会が目を向けることになる夢ともなるのです。

けれども、夢があるだけでは、誰もそれを振り返る価値のあるものとはみなされない。
それは、まだ社会に目を向けていないものだからです。その段階ではないから。

「自分がこうしたい」でしかない夢は、社会から見れば、役に立たないことが見える。
誰かの夢が人からかえりみられないのなら、それは、まだ「その人」の夢でしかなく、人々と共有できる夢ではないからです。
たとえ厳しく感じられても、それが夢を持って生きるということの現実です。

そして、人が想い描く将来像は、すべて夢と考えることができる。

思考の起源は、「約束の力学」で自分の現実感を確保して行くことを教えているからです。

現実にしっかり目を開いて見られる夢もあれば、いつまでも自分だけの取り分に凝り固まった夢もある。

しかし、これは双方あって当然のことと思います。夢は、どこまで行っても個人の持つもの、だから、自分の求めることと、社会に求められることとは、共に共存するが、片方が孤立することもある。
ここで注目すべきは、夢として本物なのは個人の側に残る夢だということです。

・価値ある夢と盲目の夢

人間は独立した生物なのだから、当然です。自分の望みだけは捨てようとしないのが人間です。

だからこそ、素晴らしいと言える面もある一方、どこまでも自分の中に閉じた困りものの面ばかり持つ人もいる。

たいていは、自分の中に閉じた夢ばかり追う人は、自分の外に開かれた面を持つことがない。
内的な精神生活が、まだ社会との約束のできる段階になっていないからです。はっきり言えば、まだ生き方に「ウソ」が多い。

何もかもウソで生きられる人はいません。むしろ、何もかもをウソに変えられる力を持った人はいない。
しかし、何を伝えようとしてもウソを言う人は居ます。
中には、そういう人も現実に居る。

思考の起源が教える「約束」の道は、自分の「約束」さえあれば、それで自分の世界は維持される、それまで信じていた幸せが守られるという幻想を、精神の現実としてしまう力学を作るものでもある。

そして、内的現実感の強い者は、自分の外の、自分が本当に共有すべき現実感との解離的な境界を自ら作りもする。
ようは、それが「約束」の力です。
個人が作る約束は、内的生活なだけのものでも、外との繋がりを持つものでも、それが同じ「約束」の力のもたらすものであることにはかわりがない。

しかし、現実で生きなければならない健全な精神を持つ者、また持とうとする者にとっては、自分の都合の「約束」ばかり押しつけ出す者には、やはり合わせて生きることはできない。

概して、そういうものは、本当に個人主義であって、自分のことしか考えないばかりか、そのために周りに迷惑を押しつけ、他人の足を引っ張り、周りを裏切り損害を与えても、自分さえよければいい。
たとえ、それで自分まで滅んでも、です。

内的精神と言っても、しょせん、外との繋がりを絶ちきれるものではありません。

だから、「その人」が持ち込む関わりの矛盾は、その人に起源がある。行為の当事者には社会的な責任と義務があるということです。

ウソを使う人は、聴こえのいい話しを持ち出すこともよくある。
一見、聴こえのいい話しを盾にとって自分のいいたいことだけを押し遠そうとする人はいるわけです。いくらいいことが言えても、「やっていること」が矛盾にあぐらをかいていたり、他人への裏切りを勝手に正当化するものでは、やはり信用することはできない。
ところが、自分のことしか考えない者は、いいことを言えているのだから手伝うのが当たり前だと思って、また自分のいいようにだけ人を動かそうと考え出す。

内的生活にしか現実感のない生き方をしてしまっている者は、周りの現実との関わりを絶つような自分本意なだけの現実感を持っている。
そうなったら周りの現実など、あってないようなものです。
せいぜい、自分が使うウソの題材に使うだけの頭の働きしか出て来ない。

自分を隠すキレイごとのウソは、汚さを隠すための上塗りのわがままに過ぎない。いくらキレイごとを言えても、その分の汚さになって見透かされることがわかってはいない。
責任や義務を理解しないが、責任や義務を自分本意のごまかしで使える人たちです。もちろん、それでは自分自身が信用されなくなる。いずれ、そうなります。

裏切りの理屈は、結局は自分に帰って来て、自分の夢も滅ぶことになる。

それでも止めることができないのが、自分のことしか考えられなくなっている者のわがままというものです。

その現実感は、とことん自分の望みの中だけに閉ざされていると言わざるを得ない。だから、何でも自分のために歪めるが、その自分を変えようとはしない。
変わらないで居るために、借り物の理屈を駆使して、そのウソでまかり通ろうとするのです。

「通用する」と思いきや、どんなウソでもつくから、一般的な正論だけではその全体性(または人格)を理解することも改善することもできない人たちなのです。本当の改善に興味がないからウソが止まらない。
外の世界が見えなくなっている人だから、自分を改善する力も持ちえません。自分がすべてになっていることの本質的な欠陥です。

つまり公正さを知らない。自分を一人の人間として観察することができない。その替わりウソをつきます。どんなウソでも、自分のために。
自分の現実しかないということは、そういうことなのです。

だから、力学の一貫性から見なければ、相手の正体は判断も追求もできない。
一貫性の流れがあれば、ごまかしを許さず追求できます。

「ごまかし」は、聴こえはよくても、私たちの活動を裏切ります。
だから、「聴こえ」がいいから通すのでなく、ことの矛盾を問いただすことが、本当の改善への不動の土台となるのです。

思考の起源は、人の内面について重要な理解の仕方を教えてくれる。ただ、問題を解決してはくれません。
理解の土台になることで、まずは解決への足場を作るのです。
そして、社会の問題を解決する力は、逆ピラミッドの社会力学の方にあるのです。