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(・逆ピラミッド基本編12と13をまとめたものです。)
人の「思考」には、力学の法則が働いています。それは、力学であるために、目には見えない作用です。
その中でも、特に人間の本性を理解するのに役立つ力学があります。

人は、生物として生まれた時から何かを求めている存在であるといえます、それは具体的には何なのか。まだ何も教えられていない存在が、いったい何を望めるのでしょうか。
それは具体的と問われるとなかなか答えにくいことと思います。

私たちは、生き方を求めていて、それはいずれ理想と呼ばれます。

では、理想とは何か。個人にとっては自己の内面を見ることになるでしょう。限られた条件のなか、自分が本当に納得したいからです。

理想追求とは、完全性追求でもあります。これも、条件が限られているからこそ、その中で完全にしたいということがあるのです。大切なことには、できる限りのことをしたいと思うことになるからです。
しかし、こうした自然界に生きてどうにもならない限界の問題を考えなくていい理想があります。

その正体は、誰もが何も教えられなくてもその時期を迎える幼児期の完全性です。

この時期の生活体験は、およそ完全です。自分では何もしなくても、完全に自分の望むままにしてくれる生活環境がととのっているからです。この時期の体験は、これが当たり前です。それが当たり前にないと、周りの人が自分の望むままにしてくれることを当たり前にしていいことになる。

生物として、何もしなくても、完全に生活できる環境は、その自覚がまったくいらないレベルで理想です。

・幼児体験完全性と自然の逆ピラミッド

人間の「思考」は、何も導かれなくても、ある雛形を持っています。
それは、幼児期生活までの完全性体験にあるのです。この完全性には、条件がいりません。まったく無条件に完全でいられるのです。

まだおなかの中にいる間、胎児の内は完全に守られ、人の人生は生きていることが当たり前であることから始まります。自分ではまともに生きられない幼児期までの間は、これが続けられる環境に生きていられる。

実のところ、これは自然の逆ピラミッドの効果といえます。幼児期までは、あまりに「自分では何もできない」ために、周りに世話をして貰えるし、世話をされなければ、自分たちの大事な構成員となるべき者が死んでしまう。それだから、幼児期までの子供たちは、自分でも意図せずに、自然的な逆ピラミッドの力学効果を使っています。
だだ、それは、まだ自然的な効果であるために、意図的に、つまり自分から世界の良好な力学を引き入れようとするようなことはできない。たとえそれができるように見えたとしても、それは偶然です。まさに「自然の」効果に負っているだけです。だから、いずれそこから自然と離れてしまう。

人が生まれながらにして持てる理想の正体は、自然の逆ピラミッドが与える人生感にある。そう考えていい。そこから、理想や完全性の意味も見えてきます。

なぜ、完全なのか。それは、自分が生きるためのすべてを与えられるからです。ここには、まったく具体性のない完全性があります。体験が完全なのです。逆に言えば、足りないということがない。
足りないものは、すべて与えて貰えます。それだから、ここに理想があるのです。
人生において、まったく無自覚の、誰に教えられることもなく体験として知っている理想です。だから、このことを自分自身で考えることも、口に出すことも、ひらめきに出すことも、実はなかなかできない。

「どうやって、与えて貰えるか」、自分の自発性をまったくかえりみることのない幼児期特有の力学的自発性がここに表れます。まったく無自覚です。

無自覚の理想にとって、与えて貰えるのは当たり前。しかし現実は、そうではない。
生きることには必ず条件がつきます。幼児期に入り自分の力で生きる段階になって来ると、周囲の導きにより「いいつけ」を聞かねばならない段階に入って来る。

周囲の力ある人たちが下して来る「いいつけ」を守ることで、また与えられる側の完全生活に戻れる。子供たちは、その感じ方を自然と知っています。だから、ろくに言葉が通じなくても、意味が通じるのです。

人はなぜいいつけの理想を求めるのかというと、それが一番理想の完全生活への確かな取り決めだからです。大人と子供の間の約束とは、こうした意味づけでなされます。

そして、いちにんまえになるように育てられて行くほど、自分でやらなければならないことは増え、当初のほっておいてもすべてがそろう世界からは遠ざかってしまう。

しかし、そのことを納得できる手段は「思考」にはまだありません。ようは、今までの生活、その完全性が変わることが考えでは納得できないのです。「これからは自分でやっていかなければならない」と、いくら言葉でさとされても、頭の中の感じ方では納得できません。
そのわけは、幼児体験の完全生活の感じ方は、生まれてから続けて来た人生のあり方では唯一の生き方であり、それ以外の生き方はそもそもまだ無いこと。そしてそれを変えることは不完全、不満足の生き方に甘んじることだと、幼児期の体験までには分かるからです。自分の思うようにはならない現実に接して行くことで、それはいやでもわかってきます。
いずれ幼児期を越える能力が、逆に幼児期を越えることの怖さを感じとってしまう。これは、まだ小さな幼児期には自分では何もできないからこそ、巨大な不安になるものだと思います。
実は、それを治めるものが「いいつけ」を守ることへの衝動とひっぱく感となってきます。


人が産まれてから現実を生きる方法を知るための前提は、人生初期の幼児期までに占められる受容的生活の完全性にある。これが、思考の起源となって人の人生を作る上での考え方の見えざる発信源となっている。
こうした胎児期の完全無力状態に始まる生存力受容生活の完全状態体験と、それに続く幼児期の微力生存能力に対する手厚い生活サポートのあった自己の生存に対するまったくの受容自明性というものは、意識でも自覚しえない自己完全性への体験ベースの自明性となっているものです。
これが人生すべての考え方の見えざるベースとなって、その後に生じるさまざまな課題に対する考え方の原点となる。それは自分が考え方の原点を求める時に、必ず戻って来ることになる原点の意味でもあります。

人生が進めば、自分の力で生きる方法を身につけて行かなければならなくなる。生物は当然自分の力で生きるものなので、幼児期の体験はしょせん予備期のもののはずです。
にも関わらず、幼児期の生活体験の完全性は、それ以外には替わるもののない人生感の原点であらざるを得ない。人生感の原点には、これしかないからです。

・幼児的信念と約束の意味の重心化

しかし、幼児期体験完全性の世界は、現実体験の発展性の中で遠ざかる。現実は、幼児期の体験からどんどん遠ざからざるを得ません。人間は自立しなければ生きて行けない。本人に自覚が無くても、周りがいやでも自立をうながします。
そのいやでも自立をうながされる中で、幼児的体験の安定感ベースと、辛さのつのる現実体験とを「繋ぐ」ための役割が、約束にあることになるのです。
大人と子供の約束は、幼児期体験完全性と現実体験の苦難性とを繋ぐためにある。そして、約束の意味もまた、すべてこうした構図をベースとして理解されていると考えてよい。

この約束は、「いいつけ」を守ることを始まりの形とするでしょう。「いいつけ」通りに約束を果たせば、また幼児期の安定感へと戻して貰える。そうした中で、約束の意味は、体験的に確実化されるのです。この約束の意味は、本当のところはやはり意識化されません。それでも、それ以外の意味は、やはり感じとりようがないわけです。

「いいつけ」を守れば、また自分が本当に戻りたい世界に戻れる。
この信念が、見えざる幼児たちの信念の根源にあることでしょう。

さらに、「いいつけ」の秩序は、その出来の良し悪しを比較される結果と結びつきます。
周囲の大人たちは、子供に生きる力を身につけさせようとするので、そこで競争をさせようとする。
確かに、世の中にはさまざまな基準があって、子供たちはいずれその基準に到達することができるように生きなければならないのですから、常に目の前の課題をクリアするように促されることにはなって来る。自然界でも競争に勝たなければ死んでしまいます。

最初はただ当たり前のことでしかなかっただろう幼児期体験完全性は楽園のあり方へといずれ変貌せざるを得ないでしょう。
そして、心の奥深くに残る楽園回帰の願望を求めて、辛い現実のあるところへ「約束」の心の支えを頼りにして、約束が果たされることを心の奥深くの信念として、前へ進んで行くことになるわけです。

「約束」が幼児期完全体験への橋渡しとなることは、幼児たちの自然に持つ信念に表れて来ることになる。自分か相手か、どちらの方がより出来が良かったかで「いいつけ」の出来くらぺをしたがるのも、楽園への回帰の約束がそこにかかって来ているのを、楽園が遠ざかった今でも感じ取ろうとしているからだし、そうして感じ取らざるを得ないからです。

幼児期信念の強い者は、ことに勝負して見せることにこだわりが強い。相手を打ち負かすほどの競争力の高さは、自分がいかに「いいつけ」の取り決めに有利な存在であるかを周囲に誇示して、自分の価値を感じ取るのに有効な手段だからです。自分こそが「約束」を果たした者だと、ことさらに強調して見せたくなるわけです。
しかし、そのために平然とウソをついたり、人を自分の思うようにハメて見せたりするような人が出て来るのも、幼児期信念の一つの特徴です。

それというのは、幼児期信念というものは、現実に対する自分の要求の達成をうながす手段であり、充分な現実感がはりめぐらされているような確かな現実の自立感に立脚できるようになった人でなければ、そこにあるのは、あくまで自分本意の要求の出来不出来だけという狭小な価値世界に生きることでしかものを見れない人となってしまうからです。
しかし、こういう人は「そこ」から何でもものを見ます。ぜんぶ、自分本意に解釈して自分が一番よく出来ている、よくわかっている人間に見せたがるようになるのです。ようは、その人なりの「約束を守れるいい子」へのなり方なのです。ところが、そのために平然とウソをつく。
実際は、ぜんぶ自分本意にことをねじ曲げていいように受け取っているのがほとんどですが、本人は「約束」を守れる誰より価値のある人間のつもりになれた気でいられるというわけです。ウソのお陰で。
当然、こうした人はウソをウソとは認めません。または、あまりに自分本意なため、ウソであることもわからなくなっている。

こうした、「現実」にとっての錯覚は、現実を本当には相手にしないことで起こる。

よく見ていればわかりますが、自分のズルさを、おおめに見て貰っているだけです。そういうズルさにばかり知恵が回る。そして、そこから決して出てこない。だから、何でもわかるふりはしていて、実のところ徹底的に狭小な現実逃避の面を合わせ持っているのです。

現実感とは、過去の楽園感覚と現実の生活可能能力との、その間を繋ぐ「約束」の軸を通して作られる。そこから、現実に役割を果たせるようになることで、社会からもその役割を認められて行く。
こうした人生の仕事をこなせるようになることで、現実の適応というものは成し遂げられて行くのです。

しかし、一方で、過去の楽園感覚は記憶の中で忘れられて行くようで、無くなることはありません。
幼児期完全体験は私たちの思考の、一番最初の骨組みです。
ここから始まって、その中にすべての物事や出来事が組み入れられるように思考形態が発展して行くことになる。そして、その力が現実に生きられる力として充分にはりめぐらされるようになった時、あるいはその予期を感じ取れるようになった時から、自然に自分は自分の果たせる役割で生きられる、その自立の自信を持てるようになるのです。
楽園感覚の幸せは、その中に確かに残っている。それだから、幼児期に知っていた過去の感じ方や、懐かしい憧憬のあり方に対して、また振り返ることがあった場合には、素直にその感覚を取り戻すことはできるのです。思考の起源は消えません。確かに私たちが現実の歩みを自分のものにできる日まで、変わることなくその役割を果たし私たちの背中を押してくれます。

真の「約束」を果たした方が、一番確かな現実感への橋渡しを得ることができるのです。