☆世界を変える、世界は変わる☆
~究極コミュニケーション論~
リアルプレゼント 第16回
【いじめなどに絶対負けない知恵と技術】
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「リアルプレゼント」とは、私たちの世界を変えたい人の、つまり本当の現実を生きるあなたのための贈り物。
この究極のコミュニケーション力に通じた人なら、世界を変えられる。
もうあなたはひとりではありません。
例えひとりでも、世界に向かって戦える!!
これからは、何をすれば良いか悩まなくて済みます。リアルプレゼントが本当の現実の考え方を教えてくれます。
関わっても意味の無いいじめなどを苦にする時間も、もういりません。
そして、そうなってもらうために、究極のコミュニケーション力を伝えたい。
これは、きれいごとや気やすめに終わる類のメッセージではなく本当にあなたを救う、現実の贈り物。
それが究極コミュニケーションを伝えるリアルプレゼントです。
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カギとなる主体性
いじめの問題は海外でも重要視して研究されています。
その海外の研究で、いじめ解決のカギとされているのが、第三者の存在です。
いじめの問題を取り巻く、第三者の存在は、うまくこの問題に介入させれば、いじめをすぐにやめさせる効果がある場合もあり、たいていの場合は、第三者はいじめに否定的な気持ちを持っていることが多い。
これに対して、いじめの問題の当事者たちは、いじめをする側は当然のようになかなか認めないし、ことによってはいじめだと思っていないこともある。
これは、いじめられる側も同じで、なかなか人に相談できないし、相談してもわかってもらえないと感じてしまうこともある。また、もっとひどくなることを恐れるということもある。
つまり、当事者のアクションからでは、なかなかいじめの問題は、表面化できたり発覚したりしない。
どうしても、見えない部分に隠れてしまうことが起こって来る。
こうなると、周りの人間では手の打ちようがないということになりがちです。
とくに、いじめ被害は主感の問題なので、被害者が、いじめの被害をいじめでないと言ってしまえば、それでいじめでないということになってしまう。
それが明確に犯罪に該当しない場合なら、そういうことになってしまうのです。
いじめ被害を、当事者の問題だけに限定してしまうことは、いじめ解決には非常に困難を伴う見方であることがわかります。
そして、それを取り囲む第三者たちの行いも、いじめを放置して置くと、徐々にいじめに加担し出したり、自分が関わりになりたくないので、しょうがないものと見て見ぬ振りを覚えて行くことにもなる。
逆に、第三者が積極的にいじめ問題に介入した場合には、いじめをやめさせる側につく者の比率が増え、集団内の秩序を守るだけでなく、より積極的に集団秩序の改善に取り組む態度を引き出せる契機ともなって来る。
欧米の研究では、こうしたことが研究結果として出され、第三者をいじめ解決に役立てることは、その第三者たち自身の社会性の発達や集団意識の向上にもなり、逆にこれを放置して置けば、その第三者たちは、いじめをやっていいものと肯定する態度を身につけて行ってしまう傾向があることから考えても、いじめ解決のカギは、第三者の行為にある、と広く認知されるようになって来ています。
第三者を、いじめ問題の解決に積極的に参加させる。
このことで、現にいじめ対策には効果があった、ということです。
なるほど、確かに、被害の当事者が声を上げられなくても、その周りにいる人が、いじめの被害を起こさせないように介入すれば、被害者をいいように扱おうと狙っている者が居ても、そう思い通りにはならないようになって来る。
また、周りがいじめの問題に心を開くようになってくれれば、被害の当事者も問題を相談しやすくなって来るでしょう。
これは、確かにすばらしい研究報告だと思いますが、いくつかの疑問点もあると思えます。
それは、残念ながら、日本では、あまり自身の主体性を発揮してものごとに介入しようという、「責任」意識のある人が少ない。
つまり、介入を期待できない、ということが予想される。
もちろん、第三者の行為というのは、その都度取られる第三者の判断なので、必ずしも、期待通りの結果に繋がらないこともあるのでしょう。
ようは、ここにあるのは、第三者という、当事者ではない周囲の不確定因子の働きが、いじめ対策のカギであることによって、当事者が本当に必要とするような絶対的な関係の繋がりは、第三者の判断によっては保証されない。
主体者の判断によってなされる問題提起は、やはり主体者自身が直接的に求めて手に入れることができなければ、本当に頼りになる解決法とはなり得ない。
この本質を考える時、当事者の判断と行為は、どうすれば周囲との繋がりを健全なものにできるのでしょうか。
その答えは、いじめ被害の当事者が、周りの存在を、例え理想的な介入者じゃなかったとしても、そのように扱うことで引き出すことができる、という点にある。
例え、そうしても誰も反応しなかった場合でも、変わらず「あるべき態度」をするのが当然、それができるものと扱うことで、問題参加への自明的な道筋を、自分で敷くことにある。
こういう態度を取れるだけでも、いじめをする側は、自分のもくろみがうまくいかなくなることをさとり出して、やみくもないじめはできなくなる。
そして、被害を受けて介入を求めたにも関わらず、それを拒否されたような場合には、今度は、それを集団の改善課題として提起することもできる。
ただ、そうするには、当事者の問題から当事者自身がアクションを起こすことを可能にしなければならない。
第三者が解決のカギになるというのは、当事者のアクションがなかなか難しいということにも理由がありました。
明らかに、この断絶に橋を繋げなければならないわけです。
そして、当事者と第三者の間を、理想的に繋げるには、それを理想的なものとして扱うことがカギとなるのです。
実は、これには、さして勇気はいりません。
自分の判断も最小限で済みます。
それというのは、自分で判断するのをやめることで生じる、それこそ第三者的なものの見方で可能になるのです。
自分がこれをしていいのか、では考えない。
そこに居る人間としてどう動くべきかを考える、ということです。
自分のことでありながら、それを自分を越えたものとして見ることでもあります。
この客観的な視点を持つことで、自分の判断範囲にとらわれない、自分を判断する判断で動くことができる。
その為には、まず、自分の判断をやめることです。
自分の判断をやめることで、そのことから、自分を判断することができる。
この方が簡単です。
なぜなら、集団の秩序やルールというのは、自分が考えるまでもなく決まっているものなので、その決まっている考えに従えばいいだけだから、です。
また、自分にわからないことがあれば、その困ったことを集団に問題として持ちかければよい。
集団が集団のルールで動くのだから、本来、これを邪魔するものはない。
居たら、その人もいじめの加害者同様に、集団にとっては裏切り者です。
周りを理想的な集団として扱うことは、第三者を裏切り者とは扱わないということです。
もともとの、仲間である態度を蘇らせる。
裏切り者では、誰も居たくありません。
そして、主体性のない第三者も、周りが変わって来れば、悪いものは悪いと言えるようになって来る。
いわば、その第一の見本になるわけです。
そして例え一人でも、集団のルールで動いて居る以上は、初めから周りの仲間は変わらずに仲間なのです。
逆に、ここから逸れる行いをした者が、仲間をはずれて、引いては裏切り者になるのです。
この思考停止による思考の継続は、主観の判断を客観に切り替えることが肝心の点になりますが、これこそ、当事者とその周りの第三者を、ともに社会的に成長させる両者にとって恵みとなる課題の取り組み方なのです。
自分一人の考え方を捨てて、周りとの繋がりの法で生きることを考える、というのは、仏教でも説かれる対人摂理の明らかな本質です。
2500年もの歴史の間、人々の心をつかみ、人々に生き方を伝えて来た仏教の本質が、そのカギを現代の我々に教えてくれている、とも言えるでしょう。
無論、これはいじめの問題に限らず、人の生き方全般に言えることです。
そして、それだけに、必ず、私たち人間の本質に訴えかけるもののカギがあるのです。
そのカギとは、主体性が社会との繋がりの本質になるということではないでしょうか。
自分を捨てて、みんなとの繋がりを叶える法で動くということが。
参考文献
和久田学(2019)
「学校を変える いじめの科学」
日本評論社