人という存在は、「決まり切った考え」が好きなものだとつくづく思います。
自分で、良いか悪いかを、はっきり区別できていることです。
すぱっと、自分の考えだけでわけられる生き方を好み、できるだけ割り切った考え方だけですべてを済ませられればいい。
確かに、それで本当に片づくなら、一番確実にことを動かしたのだと思えるでしょう。
ただ、現実を見渡すのなら、それは「確実な現実」どころか、確実に「幻想」であることが多い。
人が、何かを決めつけたがるのは、はっきり区別をつけられることが好きだからです。
さらに、決めつけるだけで「こと」が済むのなら、こんなに楽なことはない。
確かに、区別がつけられるのに越したことはないと思います。
良いか悪いか、区別がつかないということは、特に約束事のルールで造られている社会的な見方の中で、常に「弱み」を持つ側に回ることになってしまう。
それだけでも、人はストレスや不安を感じたりすることでしょう。
そして、ルールというものは、知らないでは済まされないものなので、それに対しては区別をつけられる力が必要になります。
そうしたわけで、とにかく区別がつけられないでいるということが、人の世ではそれだけで弱点とされるところがある。だから、当然にそれを嫌うわけです。
こうした背景を見るなら、人が何かを決めつけたがるのは、簡単に理解できるものになる。
そして、この決めつけたがりの衝動と、現実の割り切れない複雑さとは、やはりぶつかり合う性格を持つものと言えます。
私たちにとって、何より確実なのは、社会の背景がもたらすものの方です。それに比べれば、人の持つ「決まり切った考え」などというものは、しょせん「受け取り方」に過ぎない。
このことを理解するには、自分に決定できるものがどれほどあるのか考えて見ればよいのです。
ものごとのほとんどは、決定されている。それまでのあり方によって、個人が「自分の思いで決めつける」ことで本当に決定できるものというのは、現実がそう決まっているというよりは、自分が動かせるもののことになります。
実際、自分の「決まり切った考え」でことに当たる人というのは、その自分の考えだけで現実のあり方を変えられると思っている。
しかし、本当に現実を変えられる力を持つようになった人たちは、むしろ自分の考えだけで変えられることの限界をよく知っている。ようは、自分の「決まり切った考え」を過信したりはしなくなるようになるものだと思います。
それは、結局は「責任」がもたらす意識の特性や変化なのだと理解することができるでしょう。
自分が何かを動かすことについて、その結果についての責任を自分が負うことがわかっているなら、自分が動かしたいからという動機だけでは、「決まり切った考え」を頼ることはしない、できないようになるわけです。
ところが、意識が開かれない人は、「できる!できる!」と言い張るところがある。
これが「過信」だというのは、自分ができないことに気づいていないからです。どうやってやればいいのかすら言えない。
ようは、具体的なことがまるで見えていないところで自分の心情だけを言っている。
しかも、その心情すら、具体性のない無責任を問われるなら消えてしまうのだから、とても本物とは言えません。
ようは、自分の心情だけで勝負できると思っている。心情で話しが決められるところから出てこない。だから、言えるわけです。
やっていることを端的に評するなら、明らかに、これは「卑怯」です。しかし、世の中では、話しの筋を通さなければならないので、いきなりぶつかるべきではない。たとえ、相手がぶつかって来てもです。
そして、あくまで、話しの筋を通しながら、出て来るべき決着を引き出すのです。
割り切り型の意識が強い人は、なんでも自分の了見だけで結果を決定できると思っているところがあって、現実を見るより、自分の頭の中を押しつけたがっているのが実情となっています。
なんでも見通しているかのような強弁を好みますが、本当に現実が見えているとは見なしがたい。
すぐ、自分の見識だけで目の前の問題を好きなように割り振りできる、と信じてなんでも決めつけて見せようとします。
ようは、その方が自分の強みを発揮できるものと信じているのでしょう。
ところが、現実のものごとというのは、良いと悪いがはっきりとは言えないことの方が遥かに多い。
むしろ、単純に割り切れることの方が、極端に少ないのです。
その意味では、現実というものの「正体」は、グレーゾーンであることにあると言える。
そうでないことの方が少ないし、そうならないようになっていると言うことはできますが、単に実態を認める力がないことの方が、仕事の現場にとってはよくあるパターンです。
「確かな仕事」と言われるものにとって、グレーゾーンは認めることができない扱いになりがちです。
しかし、グレーゾーンを認められない場所になっているほど、実際には、グレーゾーンしかない、ということが多々あります。
それは、区別の基準になる「決まりごと」の数々が、実際には複雑に絡み合っているため、「ある1つ」の決まりごとだけを守ろうとすると、他の決まりごとに影響して、他のことが守れなくなるからです。
そうした中で、割り切り型の人は、なんでも割り切り型の頭で「できる!できる!」といい張ろうとするのですが、現実を見れば、それができないのはすぐ明らかになるものなのです。
「現実」が、そんなに単純ではないからです。
しかし、「現場」や「自分の都合」では、単純に割り切らなければ、まずい話しになるということがある。
人が何かを決めつける時は、やはりその背後に、ムリを遠そうとする動機があるのです。
しかし、それがムリであるなら、やはり実態を見ていない。現実にとって、ムリはムリなのです。人に押しつけたって、解決はしない。
それでも、人に押しつけるというのなら、つまり、そのことで都合のいい解決策があらわれて来るのを期待しているということになるでしょう。
ここにも、「甘え」が見える。
「現実」に甘えても何も解決してくれませんが、「人」に甘えると解決してくれることがある。それだから、人に対するゴリ押しばかり覚えようとすることにもなるわけです。
しかし、人に理屈を越えた負担ばかり掛けるのは、悪い甘えです。
現実の認識をおろそかにしながら、いくら「聞こえのいい言い分」にしがみついても、結局はできないことを言っているのだから、実態を伴わない割り切り型の決めつけの方が、私たちの現実にとっては明らかに「うそ」なのです。
いくら聞こえのいいことを言えても、はなからできないことや実態と違うことを指摘しているのだから、そもそも、ものの見方がおかしい。
それが、人に無理じいばかりをしている自分の見識のおかしさに気づかないということなら、やはり決めつけの幻想にひたり過ぎだと言わざるを得ない。
ようは、自分勝手な思い込みです。
私たちが共有する現実に対して、ただの決めつけで関わろうとする者は、たいてい現実そのものが見えていない。
そういうものは、役に立つ「決定力」になるどころか、現場に混乱をもたらすものになるだけです。
自分の意見に固執しがちで、一見自信もあるようですが、実は、「決めつけ型」の人は周りを巻き込んでいるようでいて、本当は自分が周りに巻かれるように生きていることがほとんどです。
というのは、責任意識よりは、個人の思惑の方が強いので、周りは見えず、自分の「決まり切った考え」だけで生きられることを求めるあまり、そのまま逆に周りに乗せられることを自分の生き方にしてしまっているためです。
それが、割り切るだけの人には見えていない。
しかし、こういう人はけっこう見掛けます。世の中では、運がよければ、実態を伴わない決めつけの力だけでも、ある程度は世間を渡って行くことができるものです。実際にそういう人たちはいくらでも居るわけです。
しかし、現場から離れたところで「わかったようなこと」を言って居られる間はそれでいいのでしょうが、肝心要の現場の改善には、役に立たない。
あるいは、問題の本質を見逃してしまうのです。
しかし、そもそも現状把握ができていないところに、問題の掴み取りも、改善への立案も、まともにできるはずがない。
だから、聞こえは良さそうだが的はずれで抽象的なことしか言えない。うるさいけれども、役に立たないわけです。
そのくせ、そういう人は、いつの間にか回り込んで来て良い位置にだけは着けようとする。しかし、本当の責任は取りません。
決めつけの人というのは、自分のやっていることにへたに自信があるので、こういうことに頭が回らない。つまり、自分自身のことに。
そして、こういう人ほど、「自分の頭の中」だけに囚われて生きています。
何とか、たくみにごまかそうとはするのですが、その方がムリのある話しです。
結局、自分がムリの世界にどっぷりつかりながら気づかない。これが、一つの甘えた生き方の帰結とも言える姿になっているのです。
「生き方」が、ムリになっている。そして、そういう人ほど、周りにムリを押しつける。
代わりに、「決まり切った割り振り」の考えに流され、いくらでも繰り返して、自分勝手な決めつけの力で好きなだけ動かせるものを自分のためだけに動かそうとします。
本当の改善には目も向けずにです。だから偽者だとわかる。
しかも、そうした自分の実態には決して気づかずにいつまでも繰り返すのだから、むしろ結果は決定的になる。
こうした人がいる原因は、世の中が、人に「活躍して欲しい」からです。
その世の中が、人を活躍させるために、人を「乗せようとする」からです。
うまく乗せられていることで、「決まり切った考え」でしかものが考えられない人も、世間の働き手で居られる限りは居場所が得られる。
しかし、当の思い込みで動く人は、そのことに気づかない。
逆に、自分の力が強いからだと本気で思っている。小さな子どもと変わりがありません。
いや、屁理屈を覚えてくる分、やはり大人の方がタチが悪い。
こういう人が、自分の間違いに気づくとしたら、彼らの割り切りでは済まない現実のグレーゾーンの中で、本当に取り組まねばならない責任の意味と重さに引き出すことです。
それも、一時的なカッコつけで済まされるようなことでなく、継続するのが当たり前の責任から、逃げられないようにすることから始めなければならないし、それまでの態度にもケジメをつけさせなければならないでしょう。
それが、今後も求められる責任だからです。
社会のあり方は、すぐには私たちにはどうこうできないものです。その上で人の実状を見なければならない。
しかし、それができれば、社会に生きる人の実情というものは、意外に簡単にわかって来る。
その上で、人がただ「決めつけただけ」だけでは済まされないものが見えて来ます。
社会を理解するのには、逆ピラミッドの覚醒力学が一番だと言えます。
この生き方で見れば、人がなぜ動くのかが、同じ社会の力学を土台として共有できることになるからです。
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