人の心にも環境が作られます。
その意識の環境のことは「自我」と呼ばれます。
「自我」は、人が生きて行く上で使う認識力の環境として作られるので、それは「私」という自己意識の環境であるという統一性を持っています。
その意味で、意識は一つなのです。自分の意識の内に、どれほど多様なものを含んでいたとしても、私の意識は一つだということは、それが「私の自我」の環境であるということにとって言えることなのです。
その意味で、「自我」の働きというものには生きる存在としての、私の唯一性というものがあるのです。
私という存在は一人だからです。
生物としての「自我」は、自分が生きるために働かせる認識の機能が必要であることによる。それが頭脳の中で意識として結実して来る脳組織の神経構造による最終生産物となるわけです。
また脳の機能は、「私」という生物の一人が生きるためにできている生物進化の歴史的過程の最終生産物でもある。
当然、脳に限ったことではありませんが、生物は、その生まれ持った能力による存在自体が環境「関係」の産物として産み出されています。
そして、私たちの内側である「意識」の環境にも、同じことが言えるのです。
意識は、私である「自我」の働きとなって、自分の環境に適応するために働く。
その意味で、私は一つ、「自我」も一つなのです。
その「自我」が、私たちが生きるために、どう働くかというと、外と内の環境の中にあって、認識の「自我」として作られることによって働くことになるわけです。
私たちの内側は、生物として生きるための環境を持っています。
人の意識を作るための脳の中枢神経組織も、生きるために作られて来ていますが、その中軸を占める脳幹などの中心部位は、まだ意識を生み出しません。
しかし、意識を生み出すための中心的意義は担っている。
脳の中枢機能は、そして特に原始的な部分は、生きるために何より必要な生体機能の調整をしています。
そのために、「意識」を直接生み出しはしない。しかし、私たちが持つ意識の確かな土台となっているのです。
この土台があることで、私たちの「意識」も可能になる。そこには、意識と無意識の間の連続性もあるわけです。
私たちの原始的な脳は、直接的に意識にはなりません。その原始的な脳のあり方は、むしろ大脳などの意識構築能力が、自ら明らかにしようとするものだと思います。
つまり、自分の意識であっても、その中枢の根っこの部分は、自分でもわからない。
もともと自分の意識ではあったとしても、自分自身が生きていることの、根幹的なあり方というものは、意識が知っていると言えるものではないわけです。
それは、意識が自らに目を向けて、知識化するということで知って行くことになるものです。
「自我」にとって問題なのは、それは自分の意識であるのに、自分を知っているとは言い切れないところに一つの特徴があることです。それでも、「意識」は一つ。その働きは、私の「自我」なのです。
こうした「自我」の働きは、やはり環境の力学で見ることで、掴みにくい本質が見えて来ます。
人の内側には、自分特有の環境があり、自分の身体を環境に適応させるために働いているさまざまな能力の中に、意識もある。
その意識は、自らをより適応できるように知性の力で導いて行く役目を負っていますが、そのために何でも知っているわけではない。
自分が生きるのに必要不可欠なことすら知らないということが「意識」の現実にとってはあるわけです。
それでも、私たちは、この自分自身の「自我」を使ってでしか世の中を渡って行くことはできない。
知能は、知識を蓄え、思考をめぐらして、自分が自分の世界で適応できるように考えて行く。そのために、自分を知る必要もあるでしょう。
一つ明らかなことは、「自我」とは、自分の内部環境と、自分の外の外部環境との間にあって、自分を導くために働くものであること。
そのために存在する知能の働きが、「自我」があるということです。
「自我」は、中間的な存在です。
私のあり方と、外界のあり方との間に立って、その私をうまく導こうとしている。
内と外の環境の間にあって私で居ようとしているものが、「自我」であるということもできます。
「自我」がもし自分と外界との、その両方の知識をふんだんに知っていれば、生きることは、かなり楽になるでしょう。あるいは、他の競争相手より優位であるということは間違いない結果になって行くことでしょう。
むろん、知識量だけでなく、知識の使い方を考えることも必要になります。
ただ、その働きをもともと持っているものが、私たちの「自我」だということです。私たちが、そうしようとするまでもなく、「自我」はそうやって働いている。
私たちがすべきことは、当然、「自我」をより役立てることだと言えます。
「自我」は、抑圧の力学の影響を受けたり、外界に対して、当然知っていなければならないことをまだ知らないでいるなど、決して無敵な適応機能ではありません。その意味では、むしろ頼りない。
産まれてから生きるために、何も役に立つことを覚えて産まれて来るわけではありません。しかし、その産まれ持った力は絶大です。
他の生物種を、地球環境において圧倒するほどの知能の働きを生まれ持っているのです。
人生での希望や期待、そして不安や絶望を覚えるのも、やはり「自我」です。
「自我」のあり方によって、感じ方も変わる。それは人生を通じて、変わり続けることです。
かつての不幸や絶望が、時が経てば、生きる勇気の土台となることもある。
逆に、かつては期待や希望をかけていたことが、たいして効果がなくなってきたりもする。
それらの変化は、「自我」の中間的な位置づけの導きの役目によるのです。
それらの変化を乗り越えさせるのも、また「自我」の導きです。
すべては、よりよく知識を得ることで、解決へと導くこと、そのために「自我」は私たちに今も作り出されています。
そのために、よく考えることが必要です。ただ考えるだけでもなく、外側の世界から知識を吸収しなければなりません。
人が生物としては地球環境の支配者となったことで、人の生活は楽になりました。しかしそれは、競争にとっての楽を意味するわけではありません。
人がこれだけ増えれば、その分、競争相手も増えているわけです。
けれども、幸い人は社会的存在です。そもそも社会的存在であったからこそ、巨大な社会組織を可能にし、比類なき適応生活を実現させました。
生活が楽になり穏やかになれば、その豊かな生活を守りたいと願うのも、自然の流れとなることでしょう。
だから、私は、逆ビラミッドの生き方が、新しい知性のあり方や、その使い方にふさわしいものとなるのたと思っているわけです。