抑圧の世界構造 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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抑圧の問題は、人格の生活を歪めるものとして表れて来る、心の働きのことです。
この「抑圧」の働きを力学的に見て行くと、今までにない心理の全体像を把握できるようになるということがあります。

抑圧の概念は、フロイトが自分の研究の主要な概念として使い出したことで知られるようになりましたが、抑圧の概念自体はフロイトが考案したものではないようです。
フロイトの使う「抑圧」は、特有の性欲概念からの用語「リビドー」と一致して語られ、親などの権威者から認められない願望を抑え込むために生じて来る心の働きがあることです。

フロイトは、リビドーという性欲概念を軸にしながら考えていた。しかし、フロイト後の研究では、性欲に限らないアプローチが多々なされ、抑圧の概念は、心の働きとして一般化したものとして語られるようになっています。

それでも、抑圧の概念を理解することは、意外に困難なものだと思います。

フロイトの抑圧は、リビドーの流れとエディプス・コンプレックスがもたらす構造として考えられていました。自我(エゴ=自意識)は超自我(スーパーエゴ)からの監視を受け、エス(リビドーを生み出す原始生命力)からのリビドーを、自我の自由にはしない。
フロイトのすばらしい洞察力と思考力が発揮されているとは思いますが、今の時代にこれをそのまま鵜呑みにするのはむずかしい。

その後の抑圧研究でも、なぜ抑圧があるのか、その明確な答えを示しているものには、私もであえていません。

そこで、ここでの「抑圧」研究は、フロイトのリビドーや既存の研究から離れ、独自の力学的視点で抑圧を解明して行きます。

まず、抑圧を理解するには、無意識との違いを知ることが必要になるはずです。
抑圧された「意識」は、確かに無意識になるのですが、ただの無意識と同じということにはなりません。
なぜなら、単に「無意識」といわれるものは、今は無意識でも、それを意識に変えることができるからです。つまり、単なる無意識ということなら、ずっと無意識ということと同じではない。こういうものは、抑圧とは言えないはずです。

人格の生活に悪影響を与えるものは、単なる無意識ではなく、継続される無意識の存在です。

そもそも人間の意識には、能力の限界があって、自分の心の中、または頭の中のことでもすべて見えきっているわけではない。
たとえば、同時に覚えていられるものの数は7つまでが限界であるということが科学の研究でも分かっています。
人間の認識能力には、はじめから自分の意識として扱える範囲に限界があるわけです。
ようは、その限界から外は、無意識ということになる。

抑圧の問題ということを考える時、そうした意識の外になっているだけで、また意識の中に入れて来ることのできるものは、単に無意識であっただけで、「抑圧」ではないと考えられます。

抑圧とは、継続して意識にできないものが心の中にあることを意味しています。
この発見が、ただの無意識では表せない、人間心理の隠された本質を示していたことが、「抑圧」概念のもたらした新しい視野だったと思います。

そこでは、抑圧された心理の方が、人間の表に現れる行動や信念に決定的な影響を与えていたからです。心の中の隠されていたものの方が、人間の意識の底から、その人自身を動かしていたわけです。
そうしたことが、「抑圧」の概念で語られるようになって来た。
意識の主権の逆転とも言える事件です。
自分でも気づかない心の奥の「隠れた意識」の方が、自分の表の意識を動かしていた。
それが本当なら、自分は自分ではないということにもなって来る。
それも、ずっと無意識のままの抑圧された意識の方が、自分の心を操っている、ということになるなら、自分とはいったい何だというのか。

こうなると、「自分の意識」というものは、どこまで本当の自分の意識と言えるのか、ということも問題になって来ます。
確かに、矛盾のある行動をとって、それに気づかない人はいくらも居るわけです。それも、自分の抱えた心の問題で気づけない人が。

これまで知られて来たように、抑圧というものは、自分の体験を自分のものとして認めたくないところから、意識の表に現れないものとして押し込められているもののことでした。
だから、心理学で「防衛機制」を作る主な機能とされているのも、自分の心を守るメカニズムであることが知られているからです。たとえ、他人を激しく攻撃していても、その心の働きは防衛から来ている。それは正しい洞察だと思います。
抑圧は、自分を守るための主たる心の構えです。そして、それがあることで、理不尽を通り越した迷惑行為を人に、または自分にもかけられるようになっている。

この抑圧というものを、主体と環境の力学で考察して行きます。
それは、主体の生活環境が持つ人格(環境下の自分自身の意識)「継続」にとっての力学構造に、主体の心理が、適応力学を求めて働かせて来ることで構造化が引き起こされて来るものであるのがわかります。

人は、産まれてからずっと、個人として特有の「人格の軸線」を作って生き続けるものです。
自分の「人生の継続線」を描いて、その自分のための特有の生活力学を築き上げながら、自分の生きる姿、関わり方をまっとうしようとすることで、いわば完全な自己像にたどり着こうとします。

しかし、この完全な自己像というものがくせ者であって、そもそも自分を知らない者が自分の自己像を実現させようとしても、それこそ抑圧の強い者には自分を知ることができない。

抑圧の意識は、表の意識にある自分の自己像を歪めてしまう。あるいは、表にある自己像を守るために働くのが、抑圧の心理機制だということになります。

適応を求める者にとっては、自分がどういうあり方になっているか、という現実の判定が大事だからです。それだから、「評価」ということが、ものごとに下す最期の要となる。

この評価というものは、社会全体が下すものでもあるので、個人ではどうにもなりません。評価がかかって来るところには、どうしたってかかって来る。

だから、個人の適応にとっても、評価というものは重要性がかかって来る。それは、人生を歩めば歩むほどかかって来ることでしょう。人生がわかって来るほどに重要になる、ということです。

それでも、人生は個人のもの。その人生観は、あくまで主観的です。しかしその主観が、社会の評価と無縁ではいられない。だからこそ、「抑圧」も生じて来るわけです。
しかし、抑圧の力学にとって、一番無防備なのは、まだ力なく、人生もしらない若い頃、子どもの頃です。

この誰にとっても重要な、社会との適応過程にとって、抑圧の力学は絶えることなく働き続けることになる。

しかし、人の能力は、はじめから誰にでも持っている限界の範囲があるわけで、その持てる能力の範囲で、適応の課題をこなして行くしかない。
そして、そこには、すでに自然な抑圧の力学は働いて来ているわけです。

つまり、ある集団組織下の、そこでの「決めごと」を守ろうとすると、認識の能力は、当然そこでの適応行為にかなうように自分の能力を使い出す。
つまり、意識の中を変化させる。変化させねば、適応はできません。

この変化を、適応のために「維持」させるには、やはりそのための意識の働きを持続させて置かなければならないのです。

そうすると、今現在の適応活動に使う意識能力以外は、意識外に追いやられ、それが戻って来なくなっているという点では、特に邪魔として排除されている意識は、そこで「抑圧」されているわけです。

人の意識は、個人の生活特有の構造を持って作られているものなので、その人にとっては邪魔になる意識というものが出て来ます。それは正直に自分を見つめ直せば、誰にでもわかるはずのことです。

それは、環境への適応のために、一時的には排除されねばならない。
ここに、単なる現象としての抑圧はあるのです。
この抑圧は、自分が住む環境によって決定される。
そもそも、生物にとって適応というものは、環境のもとに生き残ることができるようになることのはずです。
だから、抑圧の力学も、環境によってもたらされる主体への負荷、つまりストレスの受け方が構造化されたものと考えられます。

この現象としての抑圧は、個人の人生観の中では、単なる現象ではいられず、その人特有の歪みを持って意識に蓄えられて来るようになるわけです。

それをひもとくには、まったく主観的な自己像と、現実化の努力の過程にある、いわゆる「自己実現」の原初態である自己化の過程を見て行く必要があります。

この自己化は、自分の実感の軸芯を作るものであると言えます。だから、心地よさや納得感の源もここにある。
およそ自己化を推し進めるものならば、それは自分のためのもの。それを「嫌」と感じることはないでしょう。ただし、自分のための好きと嫌いはある。しかし、不思議なもので、何でも思うようになるなら、どっちも「嫌」と感じることはない。
それぐらい、自己化の過程は、自分の体験にとって本質を占めているのです。

しかし当然、何をやってもうまく行くなどということはあり得ない。自己化に反するなら、「嫌」なものは「嫌」なのです。

この点で、抑圧のない人は直接的で正直です。それが抑圧の強い人は、やはり歪んでいる。自分の望みであっても、直接的には出しません。というより、出て来ても認めることをしない。抑圧のためにできないといったところが本当でしょう。こういう人は、責任感も持てないので、人のせいにもしやすいのです。

どう考えても自分のせいであっても、平然と他人のせいにして来るし、人のせいにするチャンスを逃そうとしません。
確かに、こういう人たちは居るし、やっかいな人たちです。
責任がないと、甘えの性根も強いので、何とか、人から甘えられる態度を引き出そうとする。そういう徹底して子どもじみた画策を止めることはしないし、それが「おとなの態度」であるかのような見せ掛けの芝居にひたることも手慣れていたりする。およそ、思考がそうした「ふり」に消費されているのです。

抑圧は、事実に背くものなので、やはり武器は「嘘」にしかない。

だから、抑圧と嘘は、強力なタッグを組んで、周りの危険に対処しています。

抑圧が強いと、自分の嘘がバレるのが怖いため、嘘を嘘と思わなくなってしまうところがある。これも抑圧者の持つ強い性質です。自分の連続性を失っている。

抑圧が起こす人格の毀損というものは、結局は、この人格の連続性を失うことにかかって来る。

社会で自分が生きて行けるようになるためには、理想的な居場所を得ることが「自己実現」の主要な課題となりますが、そうした自己実現の初期の段階である自己化の過程にとっても、自分と社会との間での挑戦と成功や失敗は、連続した繋がりを持っています。

そうした自己化でも、人は、自分の理想を持つようになります。理想とは、なるべく、または明白に自分の人生の継続的実現にとって、あって欲しいあり方、未来像があったり、見えて来たりすることです。
人は生涯、何らかの理想を描いて生きるものですが、人生初期においてもこれがある。

この自己化の理想像を、主に人格形成の理想と同じこととして歩むことになる個人にとって、そこに理想を崩しに掛かるような圧力が掛かった場合、人はやはりそこに圧迫を感じるでしょう。

しかし、それがすぐに抑圧と同じということはない。なぜなら、人は、ただの関係の圧力に触れただけでは、それをことさらに抑圧として問題にすることはなく、ただの普通の感じ方としか思わないからです。

しかし、ストレスと抑圧は、密接に関係してもいます。
同じ外部圧力からの圧迫現象でも、普通の感じ方と、抑圧の違いということがある。それは自己化の過程が軸芯となって感じ取ることです。

同じような外圧であっても、普通なことと、抑圧しなければならなくなる体験の結果が違って来るのです。
また、単なる一時現象としての抑圧と、人格に潜む持続的な歪みの原因としての抑圧の違いも出て来ます。

抑圧は、自己の理想化を、人格の線として継続できない圧力の到来を持つものに引き起こされる。
自分の人格実現を可能にする関係を保守しようとする意識の営みの替わりに、自分の人格にとって、不可能を意味し、それをもたらすような関わりは、意識が使用範囲としている力学圏内からは排除するように意識の力学は働いてしまう。

自己化の軸芯が、抑圧を可能とする力学を生む。

この単なる抑圧を越えた組織的抑圧は、手に入れた適応能力の成功度によって決まって来ます。
つまり、自己化の適応能力は、個人の持つ生活能力に始まることのため、抑圧の感性は、個人の生き方の感性に「近い」ものであることが避けられない。
抑圧は環境との適応関係を通じながら、その実、主体の生存感覚に非常に近い感性のあるところから作られる。
抑圧反応の現象が、非常に反射的であることも、適応感覚の近さに由来するものであることがわかります。

自己化の過程が取る、環境との適応人格の確保にとって、自己化の本性が拒否したものが、表の人格にとっての抑圧となる。

しかし、人格とは、環境との適応関係にとって作られ続けるものなので、表の「人格意識」にとっては、抑圧を作る自己の意識構造は「意識」されなくなってしまう。

抑圧とは、主体の内部環境と外部環境との間に生じる、ぶつかり合いの産物です。そうした力学の現象として見るなら、抑圧の現象を理解するのは、さしてむずかしいことではありません。

個人を十分に理解するのは、大変なことでしょうが、抑圧の現象を相手にすることなら、さっさとその本質を見抜き、それと知った対応を取れるようになることが何より重要になるはずです。
そうしたことは、公言する必要はない。
ただ、できるようになればいいのです。
人は、見かけの公平さに敏感なので、相手と同じ立場に見られていないとさとっただけで、話しをしようともしなくなる。しかし、必要なのは、現に役に立つ関係法なのです。

主体にとっての2つの環境がぶつかり合う構造の中で、抑圧の必要性は生じて来ます。その個人は、外部の環境に対しては、常に分が悪い。
そもそも、人は生まれて来ただけでは自己を実現することはできません。
生き物にとって、外部の環境はさまざまな制約に満ちており、他の競争者との争いにも勝たなければならない。
自分の能力にしても、競争にすぐに役に立つほど簡単には成長してくれません。
いずれ勝ち目が見えるとしても、ほんの一部の能力にとってのことだけになるのが現実でしょう。そうした頼りなさを解決するものは、やはり組織化ということです。
ただ生物としての主体者は、生きているだけでは、なかなか自分の望みを実現することなどはできません。

だから、抑圧が一つの解決策に見えることになる。

そうして戻って来なくなるのは、抑圧を作り出した当の意識であるはずなのに、表の意識にとっては、隠された意識から指揮される通りに、あくまで表では理想的に人格を作ろうとすることになります。それが「抑圧」です。
人格のおおもとである、自己意識の軸芯力学にとって、反人格化意識の働きはあるのです。
本来、人格化されるべき意識が、反人格化意識を作っているということです。それが表の意識となるのであって、だから「表のものとなった」人格は、自分の抑圧には気づかない。

意識の力学は、自分の人格化に理想が表れるような関わりの性質しか意識内に入って来るのを許さないところがある。
それを決めているのは、自己化の単なる力学的な適応限界です。自分が適応できないというところから、抑圧の指令は出される。

そして、表の意識では、自分は理想的に適応できているつもりになることができるようになる。
これが「つもり」だというのは、あくまで仮りのものだからです。それは、自己の適応過程にとっては本物ではない。
だから、外の環境との関わりでだけ通用する抑圧を経た人格を作ることになる。

ところが、環境との適応にとって、そこまで問題もなくただ順調に成功して大人になるような人は、およそいないでしょう。
誰しも、現実の適応段階ではムリをして課題に取り組むものであって、嘘もあればごまかしもある。それでも適応はしなければならないのだから、抑圧の現象や組織化と無縁の人がいるとは思えません。

だから、抑圧の力学構造と関わらない人格があるということもあり得ない。

しかし、抑圧は、個人の潜在意識が勝手に作り上げるものとは言え、それで周りに迷惑や被害を与えることは、やはり許されることではない。

抑圧の強い人は、どうしても、自分さえよければいいという意識、または隠された意識が強い。そのため、自分で気づかないのに、周りに迷惑をかけるのが当たり前になっている。

これを打ち破れるものは、責任の軸線です。
責任の意識は、自己の内省なしでは成り立たない。
だから、自己の適応段階の意識化と課題の確認にも直接的に意識化の段階が取れる。
自己を掘り下げて、自分の適応実態を明らかにすることは、確かに一番手間の掛かることかも知れません。
しかし、基礎的なことは、自分のものにするにはたいてい時間が掛かるものです。そして、基礎的なものほど、生きる力としては何より役に立つ。

抑圧は、人が本来は自分の世界を見るために作るものです。しかし、表の人格は、抑圧によって作られた世界を見ることになる。抑圧された後の世界だけを自分の見たい世界としているからです。
そのため、抑圧によって作られた世界は、自分の意識が見たいものを見るための構造力学を作っているものと見ることができる。

そして、こう言っていいはずです。
責任の軸線で自意識を明確化できた者は、抑圧の構造によって、自分が生きている環境のもとで、見るべきものを見ることができるようになっている。
逆に、自意識の正体から目を反らすことで環境に適応している者は、見えて来るはずのものが見えないように生きるようになっている。
どちらも、抑圧の構造が作る世界の見え方に他ならないのですが、存在の覚醒度によって見え方は逆転してしまうということです。
ただし、一般的に「抑圧」とは、覚醒とは反対の力学の働きとして語られているものなので、これを抑圧と表現することは抵抗があることになるでしょう。

抑圧の強い人は、自分の「見え方」を信じない。それが自分の見たものであることを、そもそも受け入れない。

抑圧の強い人が「なすりつけ」を平然とできるのも、そもそも自分の意識にするつもりのない意識を、人のことだったと思いたいからです。そうしたことが抑圧反応で、反射的にできる。また、抑圧が強い分、いくら考えたつもりでも、「自分に返る」ことができない。

客観的に見て、どう考えても自分の感じ方でしかなく、自分の受けとり方でしかなくても、当の自分ではなく、なすりつけたい相手のこととしか思わない。
もしくは、適当な理由が見つかれば、人のことにしてしまっていいという考えに流れてしまう。
その意識の流れに、自分が逆らえないので、自分が流されるばかりになる。

周りから見たら、一目瞭然なことがわからなくなるわけです。
または、嘘がうまい人でも、バレるということを忘れている。

抑圧された意識で自分が嘘に気づかなくなっても、事実がそれに従ってくれることはあり得ません。

抑圧は、自分が自分の事実に気づかない構造を作ってしまいます。
いったん抑圧され意識外に排除された「意
識」が、人格の保持する意識に戻って来た時には、およそ今ある「抑圧された人格の安定」に、都合のいいものとしてだけ扱われるような形で戻って来ます。

自分がやってしまったバツの悪い行いを、なぜか人のことと見なして「なすりつけ」る。そうしたことが、自分の意識でというより、自動的にできる。

抑圧は、自分の生活力学の理想を保持するのに、破滅をもたらす圧力に対する反応として心理メカニズムが働くものです。

ある問題が、強い抑圧をもたらす人もいれば、別の人には何ということもない。
そうしたことがいくらでも起こって来ます。
それは、抑圧とならない人にとっては、まだ人格の生活が維持されて行く頼りやよりどころがあって、自分が破綻にはならないという生活範囲の力学が維持されていることによるものなのです。
これが起こっても、自分の生きる道は守られる、生きて行けるというよりどころのある人は、人生をそのまま続けても生きて行ける。
だから、自分の意識のありのままの中から、都合の悪い表れを消したりはしない。または意識的にどちらかを選べるわけです。

生きる現場の圧力から、意識の生活力学が保存できなくなった人は、その意識の理想化の保持のために抑圧をする。自己の人格化にとって、悪性の意識の排除という、抑圧の力学によってしか自分の理想生活を守れなかったことによる世界の歪みを持っているのです。

その力学構図で見れば、抑圧は現象として理解できる。
力学の繋がりで見れば、抑圧は、自分が生きようとする世界からやって来る。自分の人格化の達成に向けた努力が災難に面した時の、心の力学にとっての生存反応なのです。そして、これを支える社会生活の力学として「甘え」がある。
たいていの場合、抑圧というものは、その前提として甘えられる環境があることで可能になっています。
「嘘」をついても生きられる、という目当ての環境が。
これがまずあることで、抑圧は、環境的に可能になるわけです。
これがなければ、抑圧は諦めることになるでしょう。結局、目当ての生きる環境がなければ、「なぁんだ」、ということになるからです。

同じことが、ある人にとっては抑圧にならない。
それは、まだ自分の人格生活というものが守られているからです。
人格の存続の危機から抑圧に入った人の方が、自分が抑圧とは関係ないということを、誰より自分に証明するように尊大で自信に満ちた態度を取ろうとするのも、抑圧の意識はそもそも自己防衛的だからです。そしてやはり、自分のやっていることの現実には、気づかない、気づけないなので、はりきった虚勢にもムリがある。それは自分の現実を置き忘れた、虚勢のための虚勢でしかないからです。

抑圧というものを見抜くにも、ベースには自然的なものが必要になって来ると思います。
人間本来のあり方への視線というものが。

そして、何よりも、逆ピラミッドの力学で、周囲からさとすように現実をわきまえさせることで、誰にとっても理想的な流れを作り出すこともできるでしょう。
現実の力学は、抑圧には負けません。。そして、現実の力学は、何より必要な理解へと昇華してくれるのです。