人は、自分の大事なことには、「忠誠心」で関わろうとします。
この点では、誰であっても、例外はないと言える。「忠誠の真相力学」の記事では、そのことを語りました。
そして、そのことは、まともに生きている人はもちろん、ズルくてどうにもならない類いの人にも、やはり当てはまるのです。
ズルさで心が埋め尽くされてしまっているような人でも、心の芯にはその人なりの「忠誠」があり、大事なことには、やはり、自分の「忠誠」を表して関わろうとします。
では、それはまともな人と同じ「まともな忠誠」なのか、と言えば、それは違う。
ズルい人の「忠誠」は、ズルさに重心が置かれたために、「ズルい忠誠心」になってしまいます。
はっきり言えば、「ズルさ」が忠誠になっている。ズルさで自分の人生を開いて行こうとしたために、ズルさの人生軸にしか「忠誠心」が宿らないのです。
実際の「ズルい人」を見れば、すぐにわかる。ズルければズルいほど、自分の使うズルさの手口が、自分の人生を必ず開いて行くものと「本気」で思っています。
「忠誠」の力学の真相から見れば、結果としての「忠誠」は、生き方が作るものであることが見えて来ます。それは、自分で選べる範囲のことだけではないにしても、明らかに、「忠誠心」を形作るもの正体は、生き方なのです。
ズルさに人生が流れて行く者は、ズルさで人生を作り開いて行くしかなくなり、嫌が応でも、ズルさに自分の人生の重心を取ってしまう。
そこに生じる人生の継続性のカギとなり、そのため人生の権力感と一致して来るものが、「忠誠心」なのです。
「忠誠心」の生じる力学は、誰にとっても同じ。しかし、それがズルさで生きようとする者には、ズルさの「忠誠心」が生じてしまうという、生き方の結果の違いになって来るわけです。
そのことが意味している人間理解の構図は、簡単なものです。
実は、ズルさで生きる人ほど、簡単に「忠誠心」を見せる。
まともに生きて行こうとするかわりに、ズルさが目当てということは、ようするに、まともなやり取りに生きる道はないということです。
まともな道とは、人の中で「責任」の取れる生き方のことです。これができることで、人は社会全体の循環的仕組みと同調できる、安定した人生活動のチャンスを得られます。
ズルい生き方には、これがない。
そして、これがないということは、恐ろしいことに社会とまともに関われるチャンスは、まるでないということなのです。
とは言え、誰でも知っているように、実際の世の中は、可能な限りいろんな人を受け入れています。
社会は、働き手を求めているので、「働き手」である限りは、その居場所と権利を認める仕組みになっているからです。
しかし、ズルい人は、まともに働きません。そもそも、まともに働こうとしないのが、ズルい人です。
まともに働きもしないのに、その自分が人と同じか、たいていはそれ以上に「いい思い」をしようとする。
ズルい人は、だからこそ、よりズルさに撤して、人としての自分の欲望をかなえようとします。
そして、無責任に生きて来た以上、これから今までの分を含めて責任を取って行こうとするよりは、居心地のいいズルさの信念で人生の夢を見ていた方が遥かに楽なわけです。
今までのズルさの分まで責任を取らされることを思えば、ズルさの夢に浸って居られた方がとにかく楽で生きやすい。
そう思えるのは、当たり前でしかないでしょう。
主体性は、環境とのあり方を見れば、本物か偽物かが簡単にわかる。
カッコばかりでいいところを見せたがるが、自分の環境に根づいた生き方をしようとしない。
ズルさは、生きる上で課せられた仕事をしないで、にも関わらず仕事をしていたかのように十分に生きようとする、そうした欲望です。
だから、その部分だけを持ってくれば、その場だけは有利な勝負ができる、そういうその場限りのやり取りは、本当に安定した「責任」を持つ人でも、「はめる」ことができる。
これは、本当の責任のあり方を見ないで、いきなり理想論的な結果を持ち出すことで簡単にできる。
一見、理想的に見える「言い方」も、環境の実情から見れば、むしろ混乱を作るものでしかない。
しかも、ズルい人は無責任なので、後の責任も取りません。
それでも、責任があるかのようなことは言える。ズルいからです。
「責任」を持ち出すチャンスを見つけられるからです。そんなチャンスは簡単に見つかる。
こういうものは、見えない壁を作ることと要領が同じなのです。
自分のボロが見えないように、あらかじめ「責任」を見せて、本当の無責任が見えてしまわないように、いいところを見せておく。他にも、隙を見せないように人より聞こえのいいことだけは言っておく。
ズルい人は、そうした普段からのやり取りで、たいていは隙が見えないように、ようは誰よりもちゃんとやっているかのように見せようとするものです。
そして、だからこそ、人はこうした卑怯者の自分の都合でしか何も考えず、そのくせ誰でも彼でも好きなように巻き込んで、ズルさと「まとも」さをすり替えようとする人たちに、許せない怒りを感じるのです。
実際、こういう人たちは、自分の周りにいるまともな人のやっていることと、自分のズルくやって来たことの結果を、まるごとすり替えて、ぜんぶ入れ替えてしまおうとすることまでしようとすることがあります。
責任感がないので、こうした異常なことも、おかしなこととは思わない。
責任感がないので、何より、自分のやっていることに気づきません。
それでも、無責任な分だけ理屈は引っ張ってこれるので、あくまで理屈の壁で自分を守り通そうとします。そして、どこまでも、自分の方がまともにやって来たとズルさの言い張りを続けます。
こういう人は、バレて責任を取らされる恐れが、ついに目の前に突きつけられるその時まで、決してうそを止めません。
自分でも、自分のためのうそを止められなくなっているからです。
ようは、これがズルさの「忠誠」です。
しかし、ズルさの「忠誠」は、自分の周りにいる権威者にズルさのプレゼントをしたくなった時には、いかにも簡単に出て来ます。もとより、ズルさしかないので、ちょっとした隙を狙うように、ズルさの思いつきはいくらでも出て来る。
そして、ズルさの人にはズルさしかないので、そこに自分の「忠誠心」がかかって来るわけです。
結果として、ズルさの生き方をしている人ほど、「忠誠」をよく見せるようになる。それはズルさのプレゼントでしかないのですが、本人にとっては、本気のズルさ、つまり「忠誠」なのです。
およそ、どこに「忠誠」を見せるか、という点で、まともな人と、ズルい人とでは、まったくやっていることが逆になるということが言える。
ズルい人は自分が頼りにするズルさが最初からむき出しですが、まともな人はそう簡単には見えない。
まともな人ではおぼろげに見えるだけの「忠誠」が、ズルい人は始終ズルさの「忠誠」に巻き込もうとするばかりです。
いかに生きるかが招いた、徹底した違いがここにはある。
ズルさで生きた方が得に見えるのなら、それは恐ろしい感じ方だと気づいた方がいいでしょう。
それは、ズルさの夢が見られる間だけのことでしかないからです。
夢の中では、自分のための人生は続く。
しかし、自分の正体がバレていないと思うのは、自分が見えない生き方をして来たからだということを、周りは以外と簡単に見抜くのです。それは、周りや全体との関わりの中で見れば、その継続の意味によって明らかになる。
この「忠誠」の論考も、その実態が、想像以上に簡単に見抜けるものであることを提示するものなのです。