自分が自分で居られることは、自分自身の納得という前提が必要となっているはずです。
「自分で居ること」とは、実は、それを自分自身で納得する手続きがいることなのです。
人は、それを無意識でやっているにしても、自分の納得というバランスを作って、その特有の関係地点で自分を受け取ろうとします。
自分というものは、自分にとっても作られて来るものを受け取るしかないところがある。
人は自分自身を、作られるままに受け取ることによって、その中で、特に占有するのに安定のいい「自分のあり方」を、自分自身と思うようになるはずです。
それが実際には、自分だけのあり方と言えるものではなかったとしてもです。
つまり、「自分」とは、特有のバランスのせめぎ合いが生み出すものと言える。
それは、安定しているように見えて、常に移り変わり続けるものでもある。
そして、「自分で居ること」とは、自分だけのバランスによってその姿になる以上は、自分でバランスを取れるようになることで、安定した自分になるしかありません。
しょせん、これを他人に求めてもムダなことです。
本当のところで、自分以外の人にはどうにもなりません。
せいぜい不法な邪魔をしないよう主張できるぐらいでしょう。
もとより、自分に納得できる生き方をすることができるのは、自分自身だけです。
他人がどう頑張っても、自分が本当に納得することまでできることなどはないでしょう。
「自分で居ること」にわがままなほど、そのことには気づくはずです。
本当の自分などどうでもいいなら、気にもならないのかもしれませんが。
人が協力しあうことは望ましいことです。お互いを認めあうことも素晴らしい。
しかし、自分を作ることとは別なのです。
自分を作ることは、自分にとっての義務でもある。
ただ、それを重荷にとってはいけません。
逆ピラミッドの視野は、自分をもただの一個人として客観視します。
自分を客観視することは、他の誰かと同様、大切にする仲間のあり方にするということです。
そうして、自分をうまく導いて行くことができれば、それが社会的義務にもそのまま叶うのです。