人は生物個体なので、基本は「自分本意」です。
この「自分本意」さがうまくいけば、思い通りということになる。もんくは無いでしょう。
しかし個人にとって、やはり現実はうまくことが運ばないことが多い。はっきり言えば、ほとんどのことが自分の思い通りには進まないことだと思います。
そこで人はいろいろ考えるでしょう。自分の思うようになるには、どうすればいいのか。
どう考えても、そうは思い通りにことは進みません。
そもそも、人間個人に思い通りになることなど、さしてありません。
ただ、これは、実力を問われた場合での話しです。
人の想像力が、現実を相手にしないで働いた場合、または気づかない間に、現物を離れて働き出した場合、個人の想像力は、まったく「自分本意」に関係の繋がりを持つように、自ら働くことができる。
妄想と呼ばれるものは、そういうものでしょう。
「自分本意」に、自分が関係したい繋がりだけに、ぼっとうして浸ることができるようになる。つまり、頭の中ではうまくいっているわけです。
合理化というものは、生物が必要なものを関連づけて、ものごとを予測できるように発展して来た能力だと思います。
この合理化が、独りで「自分本意」におちいる思考にも、それっぽさという現物感を与えてしまう。
そもそも、いかに「自分本意」な妄想と言えども、ある程度は現物感がなければ、むしろその現物感に安心して浸ることもできない。
しかし、結局は、「自分本意」な夢である以上、夢の持ち主に都合のいい「筋書き」となるでしょう。
そうでなければ、妄想の意味がありません。
そして、妄想が存在の夢である以上、そこに無意識に求め続けているものは、かなえられなかった約束の成就ということになるでしょう。
無意識の楽園回帰を渇望する存在意識の約束への願望は、現物生活ではやはり思う存分にかなえることはできない。
かわりに、人々は、かなわぬ約束の成就に、現物の限界を越えるまでの願望の道を見つけ出そうとする、無意識の意欲を温めるようになる。
この願望は、かないません。
人は、夢がかなうということを、挑戦意欲の頼むところとして大切に語り合いますが、夢の向こうにある本当の願望にたどりつくことの不可能性には気づかない。
それでも、存在にとって、「思考の起源にある完全体験」にしか、現物へ臨むための背景の動機が持ち得ない以上は、たとえ妄想の中であっても、究極の願望へ向けた、自分が夢見ることのできる最高の願望成就の「約束」を、追い求める以外に「自分本意」に浸る意義はないのです。
誰でもわかるように、自分独りで頭の中の妄想にこもっていても、現物では何もよくなることはありません。
ただ、まだ幼い子供のころの「体験」では、自分の思いにこもったままでも、周囲の保護者が自分の思いに合わせたことをしてくれる経験はして来たことでしょう。
それだから、「自分本意」と「約束の願望」は、完全体験に近いところで、個人の体験の中では、結びついていると考えることができる。
とことん、「自分本意」な夢を追える妄想への浸りやすさは、現物生活での責任意識と結びつかない以上、やはり「自分本意」な現物感へと結びつき出します。
あまりに「自分本意」の強い人、他人の見えていない人は、自分でもいつの間にか「自分本意」で当たり前の生活体験へと沈んでいったのでしょう。合理化は、そのためのかりそめの現実感となって意識(の中の約束)の破綻をまぬがれさせていたことでしょう。
責任を持てないで生きて来た人は、妄想主義的なところが強い。
それは、とことん「自分本意」な夢の見方です。目の前に相手がいても、その相手の実像やありのままの表れを見ない。物理的には見ていても、それを扱う意識が受けつけないのです。
だから、見たものを見た通りには認めない。事実の意味がわからない人たちです。
逆に、自分が言い張りたくなったことだけを事実だと平然と言える。
私たちは、こういう人たちも相手にしなければなりません。どこにいるかはわからないのです。また、どこにでも居るということを、私たちは知っているはずです。
社会で生きるには、やはり健全なコミュニティーが必要です。
事実にもとづいた共存の世界なら、「自分本意」の欲望でことをねじ曲げようとする歪んだ意図から、私たちを守り合うことができる。
私たちが必要とする信頼は、やはり事実に立脚して始めて健全なのだということを結びにしたいと思います。