テレビで報道の人がこういうことを言っていた。
「第三者でなく主体的に」考えていきましょう、と。
「第三者でなく主体的に」という表現は、他人ごとではなく、自分のこととして考えましょうという意味のことだったと思います。
しかし、私の考えている力学思考では「第三者として主体的に」、がむしろ肝要的価値観となります。
無論、あまのじゃくで言っているのではなく、私の考えでは第三者と主体性は矛盾しない。むしろ、矛盾してはならない。
誰だって、他人から見れば第三者です。でも、だからといって、第三者として見られた人から主体性が無くなるわけではないのです。
しかも、他の誰かから見て、第三者でない人はいない。みんな誰かから見れば第三者になるのです。
これは、主観的に見ても、客観的に見ても、そうなのです。
だから、第三者と主体性とを分離することは、まず間違っている。
むしろ、これが矛盾することは、個別的な事象に過ぎないことを知るべきです。
そもそも、第三者として誰でもない人々が集まって、それでもそれぞれが役割を果たせるような社会であることが認められなければ、私たちの社会が存続できる理由があるとも見なせなくなります。
だから、「第三者でなく主体的に」ではなく、第三者の集まりである私たちがすべて主体的に、が正しい表現のはずなのです。
力学の逆ピラミッドでは、社会で、自ら「自分ではなくなる」第三者でいられる。そして、そのことで、社会的に望まれる主体者となれる。
そのことに表れるように、第三者でいることこそが、社会で役割を果たせる主体性の本質条件となるのです。