8 事実の土台 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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逆ピラミッドは、単なる力学の指標であり、この秩序世界の恩恵を期待する私たちは、基本となるいくつかの要点をおさえておかなければならない。
その重大な一要素が、「事実」をすべての基盤とすることである。
 
当たり前のことのように思えますが、その徹底と基盤的な扱いの一般化に重要性があるということになります。それというのも、力学世界の一元論で見るこの考え方では、「共有」という概念が非常に重要になる。そして、私たちが共有できるもののことを、「事実」ということになるわけです。
この見方が、事実の扱いの基本です。つまり、私たちが共有する認識の対象のあることです。
 
ここまで書いたことも当たり前のことのようですが、実はそれほど当たり前ではありません。人は、自分の都合で認識を歪めてしまうからです。中には、がんとして事実を受け入れなくなる人もいるわけです。そうなると、周りの人たちは、仕方がないからそれに合わせて動くしかないという選択をしてしまいかちになる。そうした例はどこにでも無数にあり、いったん事実を歪めてしまうと、周りの者も、もう歪めた認識からしか話しができなくなってしまうことになる。
ありふれた話しであっても、事実の共有を土台とする私たちの力学思考にとっては、「しょうがないか」と許容することはできません。肝心の思考法が、あまりにも安易に崩壊するからです。それでも、人々は、こうした態度こそ、がんとして譲ろうとしないものであることは、おそらく誰でも体験して知っているはずのことでもあるのです。あるいは、私たち自身のこととして。それは、所詮人間が動物だからということにここではしておきましょう。ただし、表面的には認めない損得勘定というものは、人間の動物性からくるものだということは、知恵として覚えておくべきでしょう。今後一貫して役立ちます。
 
それに対して、力学の知恵の共有を土台とする私たちは、この動物的な反抗に無為に道を譲ることはあり得ません。
では、どうするのかというと、単に見たものを事実として認識するだけのことです。それが「事実として扱えるかどうか」ではなく、それを「事実として扱う」ことの徹底あるのみです。
つまり、認識の対象が本当のことでも、ウソでも、それぞれをそれぞれの扱いとしてそのまま事実として扱うわけです。
 
・事実の知恵
 
事実というのは、客観的な認識の対象のあることです。客観的というのは、誰が見ても同じことと分かることですから、客観的にものを見た場合に、その対象(見られたもの)になったものが事実です。
 
つまり、ありのままを記録することと同じと思って貰ってよい。間違ってしまったなら、間違ってしまったことが事実です。事実を脚色してはいけませんが、事実を脚色したなら脚色したことを含めて、事実です。
そうしたことで、私たちが認められる認識のすべてを、事実とします。こうしてしまえば、認識単位としての事実の扱いは、その障害が無くなることで直接化され、きわめて楽になる。
見たことを見たこととして、事実として認めて行くことは、これほど楽なことはないのです。
 
得や楽をしようとしてウソをつく人はいます。ですが、ウソをついた後は、帳じり合わせやストレスの堆積など、決して楽な道などではありません。後になるほど大変なのが、ウソの道です。
それに対して、事実の道は、ずーっと楽なままなのです。
またウソをついても、事実が土台の大半であれば、また事実に戻りやすいのです。どちらがお得かは、いうまでもありません。
ウソについて、もう1つ恐ろしいのは、ウソをついている内に、ウソをついていることも忘れてしまうことです。しかし、周りは忘れません。そして忘れてもいけません。
 
事実の道は、楽なだけではない。そもそも事実とは社会の共有物です。これを守るということは、引いては社会を守ることです。
ですから、例え、一時的には理解して貰えず、一人で孤立的になって味方もなくなっていたとしても、事実の味方でいることは、社会の味方でいることと同じであることによって、いずれ相応の評価のなされることです。一番確実に評価のなされる道だということが言えるでしょう。
 
最後に付け加えるなら、こういう話しは甘いという人はいるかも知れませんが、こうしたことが分からず、ズルさに走る方が「甘い」のです。そうした人は、真の一貫性の強さを知らないからです。
その強さの源とは、私たちが共有する社会との強いきずなそのものだからです。