21世紀の日本において、つい見過ごされがちなのは、人間そのもの本来の動物的な生き方かもしれません。
例えば、それは快適、休まる、癒やされるといった、何か巨大な時間の流れに逆らわない、立ち止まるような休み方とも提案できます。
人間らしさ、動物的な人間らしさとは、偏に暇と付き合い、暇と適度に付き合うことかもしれません。
それは建前だらけである、そういう言い方もできるかもしれません。では、人と人が交わしたい本音とは、どのようなものでしょうね。
根本的な何かが欠落しているようかもしれない、繰り返しになりますが、それは万人の等しく感じる不満足でしょう。
それは何か、勿論まだ分かりませんが、建物を設計したり、建築物について論じることは、その何かの解決へ向かうかもしれません。
動物的に人間らしい暮らし方とは何かについて、少し考えてみたいと思います。
ひょっとしたら、戦後を経て、高度成長期が終わり、バブルを通過して、そろそろ、何かおかしいな、そんな問題点を意識しているのかもしれませんね。
まず、少々気になる点なのですが、よくこうした分からない問題に対して、安易に温故知新であるとか、安っぽい懐古主義を持ち出して、昔はよかったなど、現在という時間の軸を完璧に無視する暴論も、頭の痛い傾向にあります。
例えば、この暮らし方の不自然という問題は、今までに日本人があまり体験してこなかった不自由ではあるでしょう。新しい問題には、新しい回答を考案する必要があると思います。
その為には問題点の認識や把握、そして解決策を練る、そんな段階の途中で確かに、過去の事例や故人の遺作は大変に参考にはなると思います。
しかしながら、昨今の無策ぶりは、まるで昔という時代に全ての万能があって、文明の進歩や道具の発達、便利の考案、善悪の基準、文化の尊重、その全てに、昔はよかったの一言で片付けてしまいがちな怠慢という腐敗は、あるいはもっと凶暴な事態を招くかもしれません。今、現在という時間軸の現時刻は、常に最新を更新し続けると思います。
大袈裟な言い方をすれば、そのように人間を進化させたい、そんな論調を語っているとも表記できます。
そのような前提に立つのなら、テレビの押し付ける常識的なという空間の尊重が、人間という存在との乖離が激しいとも言えます。
その結果、建築物全般の風潮として、働いて眠る、住環境での暮らし方がそんな、働くと働かない、そんな二極化した過ごし方になっているのは特徴的な傾向とも考えられます。
暮らし方とは何か? そんなに難しく昔の人は考えてこなかったのかもしれません。