『アマルフィに行きましょう』
彼女の誘いは、いつも突然だ。
しかも、言う事が突飛だ。
『後数年のうちに、
あそこも世界遺産登録なんてされて、
今の環境が維持できなくなるわ。
その前に行っておきたいの』
彼女は、
真っ赤なクーペに乗っている。
結構な遠方であっても、
それで出かけるのだ。
今回は、
五指に入るくらいの遠出で、
空港に着いた私に、
酔い止めと水を用意してくれていた。
運転が、少々、あらい。
高速道路を降りると、
視界が急に明るく開け、
海沿いに出る。
断崖の海岸線の、
細いワインディング・ロードを、
慣れた様子で走る。
窓を全開にし、
彼女の赤毛とビリジャンの瞳が、
鮮やかに輝く。
彼女は、
いつも黒い服を着ている。
この日も、
暑いくらいの日だったにもかかわらず、
黒のハイネックに黒のスラックス、
履きこんだ黒の革靴で、
薬品のにおいを漂わせていた。
道の脇には、
栗の木の青や、
レモンの木にかかった羅紗の黒、
小さな赤い花、
断崖、入り江にへばりつく建物、
すべてが流れていく。
一段と深い入り江の街は、
アマルフィ。
一面陽の光を浴びて、
紙粘土を張り付けたような人工物が、
白く浮き出ている。
レモンチェッロをソーダで割り、
ぐびぐび飲みながら、
細い路地を、
迷うこともなく歩く彼女。
私はもう、息が上がっている。
もうどこだか分からない。
壁に囲まれたくらい路地を抜けると、
広場があり、
広場の隅っこの暗い路地に、
また入り込んで進む。
明暗にくらくらする。
不意に彼女は立ち止まり、
上に向かって、
『Ciao!!!』
と、大声をあげる。
古い白壁の建物から、
女性の声が聞こえてきたかと思うと、
いきなり私の脇のドアが ばんっ
と開き、
花柄ワンピースのでっかい中年女性が、
黒服の彼女に突進し、
何かを叫びながら抱きついた。
二人は、
満面の笑顔で何かを話しているが、
私にはイタリア語は分からない。
汗だくで突っ立っている私に、
二人はまた笑顔を向けた。
『彼女はローザ、私の友人よ』
彼女の住まいには、
たくさんの絵が置かれていた。
飾るというより、
置かれている様子から、
それは彼女の描いたものだと分かった。
からだに巻きついた脂肪を、
ぶるんぶるんさせながら、
花柄の彼女はキッチンに舞い込んだ。
黒服の彼女は、
慣れた様子で、
テラスに私をいざない、
古い椅子に座った。
そこからの景色は、
息を吸うことも忘れるくらいの、
あまりにも美しいものだった。
入り江にへばりついてまで暮らす、
その心は瞬時に解せた。
呆然とする私の、
背後からパイ生地のいいにおいがしてくる。
横を見れば、
黒服の彼女は、
なんと、
うたた寝をしている。
いや、目を閉じているだけか。
よくよく考えれば、
私は彼女と十年以上付き合っているわけだが、
彼女のことはよく知らない。
こんなイタリア人との仲だって、
さっきはじめて知ったのだし。
口数だって少ない。
最低限の会話で、
私たちは付き合ってきた。
それでいいと、
また、今もそう思っている。
風が、あまりにも心地よい。
こんな時間を、
過ごせているだけで、
もう、他に何がいるか。
歌声が近づいてきた。
花柄の彼女は、
片手にワイン、
片手にでっかいパイを持ち、
近づいてくる。
そして、また何かを言った。
『ねぇ、ミュウ、今彼女はなんて言ったの?』
彼女は目を開け、微笑んで言った。
『あなたの娘は、きれいな黒髪ね、と言ったのよ』