生命の息吹 | サザンカの道標

サザンカの道標

心を音にするプロフェッショナルが好き。
神谷浩史さんについてが主。

 時々聞かれるんですよ、国語得意だったんですか?と……別に得意でも不得意でもなかったんですが、黙読はめちゃくちゃ速かった記憶がある……それだけ……ちなみに普段本を読むことはないです。これは明確にない、です。神谷さんの演技プランの真髄が知りたくて作品の原作だとか、神谷さんが好きな本なんかは手に取ったりするんですが、そんな限られた書籍を目的を持って読むくらいなもので、いわゆる読書好きの方のように乱読というものをした記憶は人生で一度もないです。今ももちろん、活字アレルギーは持続し……うん、そろそろ何か読まなきゃなあと思いながらも。踏み出せぬ一歩。

 で、思うんですけれど。本を読んでおけば良かったと(笑)時間がある学生の時になんでもいいから良質な書籍を読んでおけばと今、残る後悔といえばそれに尽きます。結局のところ人間の思考力というのはいかに一段階上のインプットをしているかだと読書を放棄した人間は痛感する羽目になっているわけで。じゃあその代わり私が小さい時にしていたことはなんだったのかと思い出してみると、辞書サーフィンだったと最近思い出しまして。好きだったんですよ、辞書を引くのが。もちろん小学生ですから、学生向けの国語辞典なんですけれど、とにかく正しい言葉を発見することが楽しくて仕方なかった時期が……友達いたのかなこいつ。夏場自室で数時間かけて延々とそれを繰り返していたことにも気付かずに部屋にこもっていた私を見て母は一言「電子辞書買ったる」

 そんな私ですみません。






 さて。どうでもいい話をしましたが、字数制限のない場所でなによりも書きたいこと!リーディングライブです。気にするな、心はまだ2017年だ。過去のものまで含めると腱鞘炎になるので、「Be-Leave」の話を、もうすでに朧げになっている頭でなんとなく書いていこうかなと。なお、レポなどではなくただの感想なので、物語を辿ることはしません。御察しの通り最近イベントに行けていないもので、リアルタイムの何かがなく……OOから本格的にブログとしての役割を果たし始めると思うのでご容赦をば。



 「Be-Leave」といえばなにより、脚本: 神谷浩史に尽きますよ。ここで全てが終始すると言っても過言ではない。もともと演劇部にいらした神谷さん、やはり最終目標は「自分で脚本を書いて、それを演じること」だったとおっしゃっていたのですが、役者として活動を続けるうちに様々な良き文章に出会い、演じることに専念しようと転換されて。ネーミングセンスにしろ、それこそ歌活動のハレシリーズの美しい軌道にしろ、生み出すことに関して並々ならぬ能力をお持ちなのに、徹底して受け身に回るあの職人性が私は痺れるほどに好きだったのですが、それでもやはりどこかで「板の上で役に没する神谷さん」「神谷さんの手がけた脚本」というものに憧れていたのもまた事実でした。ラジオドラマの台本を書かれている時も、人間の感情というものに純粋に焦点を当てる作風が好きで、このひとがいつか演劇の脚本を書いているところが見られたら……と願っていたところの話でしたから、そりゃもう驚くどころの騒ぎではありませんでした。比喩ではなくその日は本当に寝付けなかったくらい。マイク前の芝居に全霊を託しながらも板の上のお芝居というものに特別な憧憬がある節を度々見てきた手前、本当に嬉しくて嬉しくて。



 リーディングライブ当日終演後。

 硬直したまま震えが止まらない止まらない。

 これが、神谷浩史の脚本かと。

 剥離性人格障害、いわゆる多重人格者をテーマに据えたこの作品。精神科で治療を受けている患者、ビリーのインナースペースである「ビリーズマンション」で行われる会話劇。人格者と交信をする神谷さん演じるルーカスの目的は、他人格が出現した際の所業の記憶が剥離して苦しむ主人格のために、患者の中に生きる人格を排除すること。つまり、人格消去という治療ですね。ビリーの症状はすでに本人が自殺を試みるほど進行していたため、手段としてもかなり無慈悲なものでした。ひとつずつ人格を呼び出し、確実に遂行するはずだったルーカスは、人格と向き合うたびに機械的に行うはずだったこの治療法に疑問を感じ始めます。

 違和感がある、と。
 ことの理由を説明し、主人格に残す言葉はあるかと人格に問いかければ自分の持つ力をひとを助けるために使いたかったと皆が口をそろえる。多重人格者が人格を複数作り出してしまうのは、防衛本能。つまり、自分を守るために作り出したはずの人格で、他者を傷つけていてはいけないと人格が意思を持って「消してくれ」とルーカスに懇願するんですよね。芽生えている人間の情、それを前にして『医者』であるルーカスは揺らぎます。

 本当に自分は正しいのだろうかと。

 そして消したはずの人格はいつしか、教師というひとつの人格に統合されていきます。厳密には統合しきってはいないのですが。

 ビリーの将来の夢は、教師になることだった。

 統合されかかっている人格を前に、ルーカスは最後には「できない」と膝をつくんですよね。ここの芝居が、それはもう鬼気迫るもので。神谷さんの芝居は憑依型だという話を千度しましたが、ここでルーカスは涙を流すんですよ。「医者である前に、人間だ」と。当然板の上に神谷浩史の姿はなく、そこにあるのは精神科医ルーカスだったのですが、神谷さんの体を器としてルーカスの感情がブレる、そんなノイズのような芝居。全身を震わせるさまは雰囲気づくりでもなんでもなく、ルーカスを体内で生かす神谷さんの体が結果として起こした反応。圧巻でした。

 物語は進み、人格消去ではなく人格統合へと転換し、ビリーの治療は終わります。



 この最高峰のお芝居で繰り広げられるステージを前にして、私はとにかくああ、これこそ神谷さんの脚本だと思いました。

 倫理観や価値観、正義のようなものを生々しく根底から問い直しながら、最後には『人情』や『家族』をもって肯定する。人間の純粋な部分、美しい部分を伝えるにあたり、綺麗事では片付かぬ普遍の原理をルーカスを通して伝えてくるお話。否定ではなく肯定で収束する、そんな美しさでした。

 実際ルーカスは物語前半、インナースペースにおいて掴み所のない怪しい人間として登場します。人格からすれば「管理人」と名乗る男の正体など掴めませんから、そうなって当然なのですが、ルーカスからすればそれは一種情の封印だったのだと思います。人格とて性質を持つ。確実に任務を遂行するためにも、あえてそんな〝役作り〟をした。
 中盤では人格消去を繰り返すにつれ、違和感と焦燥感で滅茶苦茶になったルーカスはそれこそ雰囲気が変わったと言われても過言ではないほど、ぼろぼろの状態でした。ほとんど答えは出ているのに、それを受け入れることができない、これもまた人間の性。それでも最後の人格と向き合うためにもそれを押し殺すような声の響き、私はあれが忘れられません。
 終盤、人格統合の治療後目を覚ましたビリーに語りかけるルーカスはまた別人でした。あたたかく、柔らかい、安堵を滲ませた人好きのする表情。彼の本当の姿はきっとこれだったのだろうと思うのです。

 結果ご覧になった方にしか伝わらない文章になってしまいました……おかしい……

 兎にも角にも、役者神谷浩史さんを語る上でリーディングライブは外せません。声の芝居だけではなく、視線の動き、呼吸の〝間〟、言葉ではない音の部分。板の上だからこそ、そして、朗読劇だからこそ。見られるものがある。

 今年のリーディングライブは奇抜な演出もなく、台本を持った人間の間で行われることに意義のある空間になっていました。それは、神谷さんの目指す「声優が行う朗読劇」の骨頂ではないかと。彼が演者だったから、受け身の役者だったから、だからこそ生まれた構成と世界観でしたもの。

 これぞ最高傑作。

 



(もう更新するネタなくない?)