ビフォー

今回の人生相談は、憎い母親と離れられない悩みでした。


憎い母親への共感と理解は、やってないかもなʕ•̫͡•ʔ


気づき

人間だけは、子供の頃、親に依存しなければ、生きていけない。動物は生まれてすぐに立ち上がったりするから、依存していないというのだろうか?子供の頃は衣食住を依存していて、当たり前です。親の義務というか、子供は自分の力で自立して、何かできるわけじゃないから、ほっといたら、死んじゃうもんね。働くこともできないから、犯罪犯すしかなくなっちゃうもんね(๑•﹏•)。責めるのは、依存です。責めるっていうのは、相手が変われと言っているから、相手が変わらなかったら自分が苦しくなるということで、相手の反応に依存してるもんね。責めるというのは、相手が変われということ。思い通りにならないと嫌だ、安心できないということは、精神的に依存している。安心は基本的には、自分自身が作り出すものだからかな?実害があれば、相手に変わってもらわないと安心できない部分もあるかもしれないけどなぁ。相手が変わらないと嫌だ、嫌だと駄々をこねてたら、子供みたいだよね。相手が変わるかどうかは、相手の課題だからなぁ、変わってほしいんだけどなぁ、クソ(∩^o^)⊃━☆゜.*・。相手が変わらなくても安心しなくちゃいけねえのか、クソ(・×・)。相手を責めたら、権力争いになっちゃうからなぁ。お互いに支配しあって、依存し合うんだなぁ。実害があれば、責めるらしい。責め方は考えなくちゃいけないと思うんだけどなぁ。対等な人間になってるというのは、相手を理解できてるということ。仕方ないと思えてること。ある意味、可愛いと思えてること。自分が理解してあげても、相手が理解してくれなかったら、対等じゃないのではないか?対等になるためには、相手を理解してあげる必要があるのは上から目線で自分のことを理解してくれと言ってる状態とは違うということかな?仕方ないと思っているということは、相手が自分の中に入ってくることを受け入れたということで、自分が変わったということであり、理解したということだよね。尊敬し合うことが対等な関係性とも言うけどね。理解しないことは、上下関係で、自分が上に立ってるという感じがするなぁ。理解と共感は違う。共感的理解という言葉もあるけどね。私が親だったら、そういうことはしないけど、一人の親としてそういう生き方をする人もいるよねと理解する。共感はできないけど、理解することはできるからね。共感はできないから、理解することもできないと思ったら、憎い親は憎いままか(๑❛_❛๑)。親が思い通りいかないからにくいけど、そうじゃなくて可愛いと思えるかどうかです。理解したら可愛いと思えるようになるのかい?可愛いって、何か上から目線で腹立つな(💢'ω')。でも、理解してあげて、可愛いと思えたら、ちょっと余裕がある感じするぜ!ぐへへ~!!!!(^p^三^p^)。理解しようとすれば、憎い親も可愛いと思えるようになる。親は上から目線だから、親からしたら、子供はいつまでも子供だから、こっちが理解して、可愛いと思うぐらいで対等にはなれないかもだけど、ちょうどいい関係かな?共感は難しい、感情だから( ˘•ω•˘ ;)。嫌いなものを好きにしようとして、感情をコントロールすることができると思うかもしれないけど、やっぱり嫌いなものは嫌いだなぁって思うのが、人間なのかなぁ?共感をコントロールすることはできねえんだなぁ( ◜ω◝ )。共感は直感みたいなものかな?相手を誰でも構わず、自分を傷つけてくるものでも共感をしようと思うときついもんなぁ。へんてこりんな曲を聞いて、素敵な曲だと思うことは難しい。でも、こんなへんてこりんな曲が今売れてるんだなと理解することはできる。多くの人は、共感したものしか理解できない。共感してるのに、理解してないということはないということだろうか?共感はできるけど、理解はできないということはないのかな?共感してる人だって、最初は理解しているのではないだろうか?理解できてるから、共感しているんじゃないのかなぁ?だって理解できない人って、共感できないじゃん。多くの人は、共感が先で理解が後になっている。だって繋がりたい人は、共感できる人だけでしょ?共感できない人と一緒にいたいと思わないから、共感できない人を理解する必要性がほとんどないんだよね。共感が先で理解が後になっていたら、人とぶつかっちゃいそうだよね、だって、共感できない人とは、敵みたいな感じになっちゃって、理解しようとしないから、ぶつかっちゃうでしょ?好きな人がやることは理解できる。好きな人は、共感できる人だから、理解もできるわけだよね(*’ω’*)。嫌いな人がやることは何やっても、理解できないとなる。嫌いな人は、共感できない人なんだから、理解すらしたいと思わないよね。でも嫌いな人を共感できなくても、理解をすることはできるよね。理解は感情を伴わないわけだから、思考でするものだから、理解は嫌いな人でもしやすいなぁ。大体、イライラする、どうでもいい共感できないやつのことを理解しなかったら、イライラさせられちゃうからね。共感が先で理解が後になってるのが人間のデフォルト。共感の感情が先に働いて、後から思考をして、理解をしようとするんだなぁ。理解できないところがあっても、共感さえしていれば、その人を理解しようと努めるんだろう꒰。•ॢ◡-ॢ。꒱。共感から理解ではなくて、理解から自由なのです。憎い、母親に、共感から始めようと思うと難しいけれど、理解から始めようとすれば、共感はできるかもしれないし、できないかもしれないけど、理解だけしておけば、相手を許すことができて、自由になるのだろう(๑°⌓°๑)。なるほど、お母さんは、そういう理由で、そうだったのねと(´^д^`)ワロタ。理解しようとしない人は、必ず共感がスタートなのです´ ³`°) ♬︎*.:*。共感からスタートすると、共感できない時に、理解しようとすることの妨げになってしまうから、はじめに理解からしなければトラブルんだろうね(>人<;)。共感から理解がデフォルトだけど、そこから自由になるためには、理解が先だ。嫌なことや、不快なことや、悪口を言ってきた人から自由になるためには、そいつを理解しなきゃいけないわけか꜀(.௰. ꜆)꜄。悪口や嫌なことしてくる奴から、自由になろうとして、共感しようと思うと、難しいわけか。その人を理解した後に、距離を取るのも自由だし、力になろうとするのも自由でしょ。相手を理解しなかったら自分が相手の力になってあげようとすることはないだろうけど、相手を理解することによって、相手の力になってあげようとすることもできるし、距離をとるという選択を選べるわけか。まずは理解だよ┐(´д`)┌。話を聞く時って理解しようとしてるよね。でも、共感しながら話を聞こうともするよね。話を聞く時も、理解が先で共感が後がいいのかな?自立とは、相手を理解しようとすることであり、自分の期待を込めないことです。自分が相手に期待をしたら、相手が変わってくれることを期待しているわけだから、相手のことを理解しようという気はない気がするから、相手が自分のことを理解してくれることを期待しているのかもしれないから、自分が相手に依存してるということだろうか?自分に期待することを自立というのだろうか?相手に期待することを依存というのだろうか?理解の反対は期待とも言えるだろうか?相手が自分のことをわかってくれることを期待して、自分のことを理解してくれることを期待していると、自立できそうにないね。理解するっていうのは、能動的な感じがして、めんどっちいなぁ( ⸝⸝⸝¯ ω ¯⸝⸝⸝ )。でも、相手を理解しようとしないと、トラブると思うと、理解したくなるかもしれんよ(。・_・。)ノ。相手から自分のことを理解してもらおうとすると、依存しちゃうし、支配されちゃうからね(๑•﹏•)。相手を理解しないと、支配にされちゃうんだよ(๑¯﹀¯๑)。相手に期待しちゃうと、相手に支配されちゃうよ(๑•﹏•)。期待するなと言ってる訳ではなく、不可能な期待をするなと言っているのだ。相手ができる期待ならいいというのか?相手がしてくれそうな大丈夫な期待ならしてもいいということだな。相手に期待するという言い方ではなく、言い方の問題かもしれないけど、希望と可能性はもっていいと思うんだよね。希望と可能性だって、大きく持つことは、依存だよね。でも、自分の心の中で希望と可能性を大きく広げて持つことは他人に要求してないからいいのではないか?でも、心の中で相手に希望と可能性を大きく持ってしまうと、精神的依存となってしまいそうだからやめようかな?なんでもおどおどにしなきゃいけないから、希望と可能性を持つにしても、少しの期待を持つにしてもほどほどにしないと依存しちゃうし、自立できないよね。


TO DO

対等な関係性になるために、共感を先で理解が後にならないように、理解が先で共感が後で接するようにして、まず相手を理解しようと努めて、相手に期待しないで、自立する。