【用語解説】 決闘、高田馬場 | 桃象の観劇書付

 

中山安兵衛武庸(たけつね)は越後の国新発田の生まれ、

しかし父が失脚・自害し、お家取り潰しとなり

息子中山安兵衛は、江戸や京都に流れて波乱な人生を送った。

 

14,5歳の頃というからみなし子というほど小さくないようだが、

江戸に親類縁者はいなかった様だ。

中山家のお家再興を夢見る浪人である。

江戸の貧しい人々の住む街に住み、

街の人々の喧嘩があるとそれを止めて仲直りをさせ、

喧嘩していた両方から金をせびって

酒を飲むというような無頼な暮らしをしていた。

 

それで喧嘩安とか呑んべ安と呼ばれていた。

また関の孫六の鞘が赤かったところから

赤鞘安とも呼ばれていたという。
 

酔っ払ったうえに夕焼け空、

夕映えでいよいよ赤くなった飲んべえの顔を指して

人は「安っさん、お前さんの顔も腰の孫六の赤鞘のように真っ赤だよ」と冷やかしたのだろうか。

少々荒れた生活ぶりが垣間見える。

その日も安兵衛は、街で喧嘩の仲裁をして金を稼ぎ、

酔っぱらって家に帰ってくる。

するとそこに、彼の伯父(菅野六郎左衛門)の

手紙が置いてある。

 

酔っ払っている安兵衛に向かって

隣に住むのり屋のばあさんがその手紙を差し出す。

 

伯父は悪い侍たちからあらぬ遺恨をもたれ、

決闘をいどまれてこれからその決闘の場所に

指定された高田馬場へ行くところなのである。

 

敵は多数。安兵衛はすぐ酔いからさめ、

刀を掴んで駆け出そうとする。

 

赤鞘の関の孫六である。

「ばあさん、水だ、水をくれーーッ!」

相手は村上三郎右衛門とその一味。

剣士中津川祐見(村上の妹の夫、つまり義弟)もいます。
♪「おりしも伯父の背後から 薙刀持って祐見が・・・」の人物です。

高田馬場の決闘が行われたのは

元禄7年(1694)2月11日というから

討ち入り7年前の出来事。

 

この時の決闘が彼の運命を変えることになる。

安兵衛はその決闘で一躍人気を博し、

そしてその活躍ぶりを見ていた

赤穂藩の堀部弥兵衛の目に止まり、

くどかれて養子となり「

堀部安兵衛」が誕生するのである。

「中山家」の再興はこの時点で諦めた。

 

 

■ きっかけ

 

元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で

同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が

相番していたときのこと、

年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて

2人は口論になった。

 

このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、

2人は盃を交わして仲直りしたのだが、

その後また口論となってしまう。

ついに2人は高田馬場で決闘をすることと決める。

 

しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた

2人しか集められなかった。

 

一方、村上家は3兄弟であり、

しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。

そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の契りを交わしていた

剣客中山安兵衛のもとへ行き、

「草履取りと若党しかおらず、

決闘で役に立つ連中とも思えない。

万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、

また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。