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EHIME PENTA MILITARY BASE

愛媛PENTA軍基地広報課


 朝日新聞が吉田調書、そして長年「誤報」(誤報というより捏造?)を繰り返してきた慰安婦問題について謝罪した。
 インターネット上では、もはや「紙」の時代は終わったという意見をよく見かける。将来ジャーナリストを目指し、また新聞社に就職しようとしている私としてはとても残念で、危機感も出てくる。
 スマホ、タブレットの誕生によって、インターネットは家の中で、身構えてするものから、今では最も身近な存在となっている。では、持ち運びにも不便で、料金を必要とする新聞社はもはや「時代遅れ」の過去の物へと変わりつつあるのか。
  私は、インターネットというメディアはまだまだ「既存のメディア」には及ばないと思っている。確かに、早急さが求められる役目は既にインターネットに取って代わられた。このことは、今回起きた「御嶽山の噴火」でもわかる。youtubeの噴火の動画や、twitterの方がはるかに「早さ」という意味では既存メディアは完敗だった。
 しかし、新聞というメディアに限定して考えてみると、これはなにも今にはじまったことではない。テレビという新たなメディアが生まれた時から、「早さ」という点ではその危機は既にあった。しかし、未だに大きなメディアとして新聞は機能している。ということは、今の新聞の読者の多くは「情報を早く知る」という役目以上の何かを必要としているということだ。
 では、なにがその「何か」なのか。これは、そもそも「メディアの価値」とは何なのか、ということを考える必要がある。内田樹の「街場のメディア論」ではこうメディアの価値を説明している。
 (中略)「あのメディアとなら一緒に革命がやれると思える」かどうかをメディアの価値を判断するときの最後の基準にしたいと思います。
 つまり、新聞記者が、何か伝えたいっ!これは伝えねばっ!と思っている限り、新聞というメディアは生き続けるのではないだろうか。
 いや、インターネットから始まった革命はあるじゃないかっ!確かに、アラブの春や最近起きているデモ活動などは、マスコミ発信、というよりインターネットによるものかもしれない。
 でも、日本で限定して考えてみると、どうだろう。ヘイトスピーチやそのヘイトスピートをまた、暴力暴言で封じ込めようとする対抗団体が現れる。もしくは、コメンテーターやジャーナリストが自分たちが正しいと思うことと逆のことを述べた瞬間、その人は「反日」「売国奴」となり叩かれる。
 インターネットには表現の自由があるっ!インターネットは既存メディアのように自主規制なんてないっ!なんて素晴らしい!…本当にそう言えるか。自由には、ルール、義務が自然に含まれる。表現の自由で言うと他者の人権を認めることという義務があるだろう。
 インターネットは素晴らしい。マスコミはダメだ。そう言っている人達に限って、これらが守られていないのではないだろうか。