こんにちは、やまけんです。
今日は条件プログラムではなく、自分を選ぶ生き方、というテーマで書いていきたいと思います。
私も、ニーチェやマックス・ウェーバーと同様、
多くの人々は、「条件プログラム」に縛られ、「ほんとうの力」を奪われているのではないかという考え方をしています。
条件プログラムとは何か。
それは、If-then文型思考と言い換えることもできます。
条件プログラムに縛られている状態とは、「もし~ならば、私は○○する。」という在り方です。
つまり、自分の行動に対して、意識的にせよ、無意識的にせよ、条件が付くという在り方です。
「将来いいことがご褒美として訪れるから、いいことをする」
「将来悪いことが起こるであろうから、(ホントウはやりたくても)この行動は回避する」
こうした条件プログラム型の考え方と、反対にあるのが、初期ギリシャ的な考え方です。
「端的にいいことをしたいからするのだ」
という、条件付けのない、とってもシンプルな在り方です。
そして、この初期ギリシャ的な力強い生き方を示したお手本のような存在がイエス(キリスト)です。
(余談ですがニーチェもキリスト教は嫌っていましたが、イエスという人物に対しては尊敬の念を抱いていたようです)
イエス(紀元後1年ー紀元後33年)はユダヤ人の男性です。彼は、ユダヤ教徒でした。
ユダヤ教には、破ると罰せられるような戒律がありました。
敬虔であればあるほど、ユダヤ教徒は、この戒律に反した行いをしませんでした。
なぜなら、条件プログラムに従い、「もし戒律を破ったならば、悪いことが起きる」からです。
しかし、このような戒律をモノともせず、「端的にいいことをしたいからするのだ」を貫いたのがイエスでした。
イエスの時代、ユダヤ教の教えとして安息日、すなわち日曜日は「いかなる仕事もしてはならない」と定められていました。
ですが、イエスは度々、安息日にも関わらず、苦しんでいる人々を癒したのです。
このことは、ユダヤ教内のファリサイ派の人々から律法違反であると糾弾されました。
ところが、イエスは
「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
と語りました。
まぁ、要するに、「目の前で苦しんでいる人がいるのに、安息日だからといってなぜ助けないんだ。あなたたちはルールの奴隷なのか。人の為のルールであって、ルールの為の人ではない。」とイエスは思っていたのでしょう。
そして、彼は実際にルールを破ってでも(=条件プログラムに支配されずに)、自らの信ずる行動をすることを選択していました。
これ、イエスの話として語ると、非常に遠い話のように思えるかもしれませんが、実はとっても身近な話ですよね。
今の人々も、こうした社会に蔓延した「条件プログラム」に犯され、本当に自分がしたいこと、自然の自分であれば選択することを放棄しているのではないかと思うのです。
例えば、たびたびSNSなどで問題として挙がるのが、
流血している人、発作を起こしている人などが道端に居ても、通り過ぎる者、何もせずに傍観する者、動画撮影をする者などが多く、助けようとする人があまりにも少ないと。
「もし助けたら、きっと○○だろう」というネガティブな条件プログラムが反射的に働き、善意はあれども、身動きが取れなくなるのでしょうね。
これは、完全に「条件プログラム」に犯されている状態です。
イエスは、そのような条件プログラムに囚われずに、真っ先にそういう人々を助けた真っすぐな存在なのです。
仮に自分がその後で嫌な目に合おうが、「ごちゃごちゃ考えずに助けるのが人として自然なことなのではないか?」というシンプルな生き方の模範です。
このような助けるか、助けないかという重めな話に限らず、私たちの前には、刹那刹那であらゆる選択肢が与えられています。
その時に、私たちは、本当にありたい自分を選択できているのだろうか。
社会、世間、他者の目を気にした条件プログラムが、自己の本当にありたい選択を阻んではいないでしょうか。
組織の論理、過去の慣習、コミュニティ内の人間関係、偏差値至上主義、空気などといったものに過度に迎合するのも、条件プログラムの支配下にある状態と言えるかと思います。
そして、今の条件プログラムの頂点に鎮座するのは、「お金」じゃないでしょうか。
「これをしたならば、儲かる」
「それをしたならば、損をするからやらない」
「それはお金にならないから価値がない」
そして、問題なのはお金にせよ何にせよ、それが正しいと思わせるようなほとんどの事物は、あくまでも他者から刷り込まれた幻想にすぎないということです。
そのような他者的条件プログラムに支配されてしまうと、本当の自分のやりたいこと、ワクワクすること、自分のインスピレーションが、そのプログラムによって、無意識の内に、常に棄却されてしまうことになります。
そうして、知らない間に、あなたからインスピレーション、ワクワク、やりたいことが奪われ、あなたの本来持っている膨大なエネルギーや豊かさも奪われていくのです。
そして、ここからがメインのメッセージになるのですが、
エゴを抑えて、インスピレーションに従って生きていくことは、まさに初期ギリシャ的、イエス的な生き方なのです。
自我、肉体意識、思考で、利口に自らを利するために行動するのをやめ、自分のインスピレーション(やりたいこと・ワクワク)に向かって行動していくことで、人は本来の自分へと戻っていき、力を取り戻すのです。
そして、その生き様は、イエスの生き様がそうであったように、多くの人に愛・感動・勇気をもたらすのです。
やはり、私自身は、エゴには本来の役割として、現実を観察・認知・目撃してもらうだけに留め、
インスピレーションを第一義のものとして、自分の運命を徹底的に信頼したいと思います。
本日は以上です。
お読みいただき、ありがとうございました。
やまけん