リープ、リンク、そしてフローする思考のままに | 開成ボーイのmadなdays

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人生は為したいことを為す手段であって、目的ではない。
生きる理由は、それしかその手段がないからである。

TEDを大量に見ている中で、ふと思ったことがあるんです。

惹かれるトークは話者の声が流れる(音楽的)で、表現が印象的(文学的)で、しばしば視覚的(絵画的)…言うならば、トーク自体が一つの芸術なんですね。

だから惹かれる。

教育改革が叫ばれて久しいですが、教育の内容が云々というよりも前に、本当に改革すべきなのは個々の教員の教え方…教え方教育なのではないか、という気がします。

マンネリ感があるトーク、つまらないトークというのは、音が詰まるし、内容は読めばわかることの繰り返しだし、表現の仕方にも面白みがない。

だから眠くなるし、つまらないと感じるし、こぼれる人間がボロボロ出てくる。

教育改革の本当の対立軸は、「ゆとりか詰め込みか」ではない…グローバル化は必要かもしれませんが、4学期制にしても教授の教え方が本質的に同じであれば、つまらない講義はやっぱりつまらないし、本当の意味での改革にはならない。

本当の対立軸は、「面白い・惹かれるか、つまらない・退屈か」…教員がいかに面白く教えられるようにするか。
個々の教員が教え方を十分考えて、生徒・学生を引き付けるようになれば、多少内容が厚くなっても生徒は付いていくと思います。

確かビル・ゲイツ氏のTEDトークの中に、優れた教員の教えているシーンを録画して、他の教員の教え方の改善に使う、というアイディアがあったと思うのですが、
彼が考えている方法の導入も含め、本当に改革すべきなのは個々の教員の教え方だと思います。

ポイントは、教員がどれだけ生徒を引き込めるか…その引き込み方はいろいろあっていいと思います。

私の中学の場合だと、内申圧(私立・国立の中高一貫系の読者も多いと思われるので言いますと、公立高校入試ではほとんどの都道府県で内申点が大きく反映されます)の影響もあって、
挙手制でボンボン手が上がる…そんな活気がありました。
こうして挙手させるように、生徒の自発的な意思での参加を促す手もありだと思います。

あるいは、TEDの惹きつけるトークのように、教員が自らの話術で聞き手の生徒を惹きつける…これも当然ありでしょう。

ただ、いずれにせよ、教員が学生を巻き込む、そして知識を若さが持つ柔軟さの中に、感覚的レベルまで染み込ませる…
ゆとりか詰め込みか、内容量ではなく、内容の質の向上を目指す。
「巻き込み教育」「染み込み教育」とでもいうべき教育が、我々の目指すべき改革の姿なのではないでしょうか。

と、ここまで書いて終わりにしてもいいのですが、ここまで書いて更にそこから見えた展望があるのでリープします。
(そう、私の思考はひらめき先行なので、大抵はリープです…まず絵や図として見える。何かその時のお気に入りの曲が脳内再生される…鼻歌になる。それをそのままではシェアできないから、言語化する…その段階で、穴は必要に応じて埋めていく)

芸術的なトークに惹かれる…だから、惹かれるような教え方をせよと言ったとき、何故?を考えると、
「人類は皆アーティストである」
という言葉が思い浮かびました。

Artに関して、夏学期に英語の授業での議論トピックになったことがあるのですが、その時私は、
"Art is anything artificial. "(芸術とはあらゆる人工物である)
と発言した記憶があるのですが、もしもそう捉えるのであれば、ソフト・ハード…何らかのレベルで何かしらを生み出してしている我々は皆本質的にアーティストであってもおかしくない…そう考えると、この考え方は妙に腑に落ちました。
(だから子供は皆クリエイティブなのです…あるいは、大人は自分のクリエイティビティを抑圧している、という論にもなるのです)

デュシャンの泉や、ウォホールのマリリン・モンローのような、レディー・メード、大量生産型の芸術に慣れ、更にはデジタル音楽を自在にフィルターや速度変更して聞いたりしている私は、この考えに違和感がないと同時に、もう一つリープを起こします。
(リープでありながらリンクでもある…その気持ちいい感じが私を突き動かす一つの精神的エネルギー源です)

アナログ世代育ちで、速度変更やフィルターを一切知らずに育ったある方と、再生速度や音響フィルターをめぐって少し議論したことがあります。
その人に言わせれば、「芸術は速度も含めて芸術家のもの…変更は許されない、本来の芸術ではないし、芸術家の領域の侵害だ」といった考えのようですが、
私に言わせれば、「芸術は鑑賞者の鑑賞によって完成する…そして、それは相互作用であり、鑑賞者が見たいように見ることも含めて、それは芸術である」と言った感じに落ち着くと思います。

簡単に言えば、その人は旧来型の著作権思想などのベースになっている近代活版印刷術に由来する、近代的な制作者―鑑賞者関係で芸術を捉えている…
しかし私は、高校教育でポストモダンを学び、デジタルネイティブとして育った世代…だから、制作者―鑑賞者という対立軸はほどけている。
制作者は絶対ではない。鑑賞者は、その鑑賞行為によって制作に携わっている…そして、その鑑賞のされ方を見届けるのであれば、制作者もまた鑑賞者になる。

量子派芸術に関して実験していく中で、私は、量子派が制作者ですら何が現れるか分からないという不確定性故に制作者の鑑賞者性をもたらし、鑑賞者の制作者性をももたらす、と考えましたが…
恐らく、それは「もたらし」ではなく、「暴き」です。
量子派は、両者の持つ両者性を暴き出すんだと思います。

制作者―鑑賞者という関係・対立軸は、本来はボーダレス…何故ならば、人類は皆アーティストであるから、そして、鑑賞の中で受け止め方を含めた形での芸術を制作し、制作の中では読めないことを制作者自身も鑑賞することになるからです。

リープとリンクを既存の言語世界で十分に表現できているかは分かりませんが(もし表現できないのだとすれば造語を勧めるTEDトークの言う通り、私ももっと積極的に造語した方がいいのかもしれません)…
私の思考はしばしばこんな感じでフローします。

普段はワントピック規制(複数トピック同時に思い浮かんだ場合は一日一個程度、小出しに)をかけてきたのですが、今回は試しにフロー全体を気にせず出してみました。

普段からついていけないとよく言われる私なので、いよいよもっとついてきてくれる人を減らしてしまうかもしれませんが…

皆さんは(トピック、及び今回のような書き方について)どう思いますか?

では、また、
see u! ;)