おはようございます。

 

最近 土用の日が気になって今年はいつかな…と暦を見ていたら

 

おかしなことに気づきました。

 

土用の日 と一般的に云いますよね。ですが 正しくは 土用の丑の日。

 

丑…うし と読むそうです。

 

それで今年はいつが土用の丑の日なのかと暦で調べました。

 

ですが暦には土用も土用の丑の日も載っていません。クリスマスでも

 

載せているのに 日本古来の土用を載せないなんておかしいでしょう。

 

と文句をいっても仕方ないので AIに訊いてみました。

 

AIは賢いですねぇ。私の疑問をたちどころに解明してくれました。

 

 土用というのは 立春、立夏、立秋、立冬それぞれ

 

の日から前に戻って18日間を云うそうです。そしてそれとは別に

 

干支が一年を通じてあるのです。つまり 一年の毎日には日にちがあって

 

曜日があって旧暦の日にちがあって干支があって六曜(先勝、大安…)

 

九星、十二直、二十八宿…とこれだけありました。(ややこしいですね)  

 

え、こんなに…と思うでしょう。

 

でも 一度本屋さんに行って立ち読みで結構ですから見てみて下さい。

 

一度機会があったら今挙げたのを取り上げてみたいですね。。

 

 話しを戻します。土用とは一日ではなくて18日間の間を呼ぶのでした。

 

その18日間のなかで 干支が12種類(子丑寅卯辰巳午羊申酉戌亥)⇒読めますか

 

あって8月7日(立秋)⇒7月21日までを土用。…その間の7月26日に丑(うし)が

 

揃っているので この日を土用の丑の日。

 

ちなみにその次の日7月27日は寅ですから土用の寅と云うのでしょうね(笑)

 

この次の 土用は11月7日が立冬なのでそこから18日戻ります。

 

その間に丑がある日は 10月30日。この日が土用の丑の日であります。

 

ですから一年で 土用の丑の日は年に四回あります。ただし干支は12種

 

ですから土用の期間中に二回あることがあるでしょう。そんな時は一の丑の日、

 

二の丑の日と呼ぶそうです。ただし今年はそれぞれ一回しか無いようです。

 

 

これで土用の丑の日 だいたいわかって戴けたでしょうか。

 

うなぎ屋さん どうですか。うなぎを食べる日は 夏と思いがちですが

 

実は春夏秋冬それぞれあるのです。 暦を見れば解りますから

 

是非うなぎの特売よろしくお願いします。

 

あ、そうそう、この話が為になった と思って戴いたうなぎ屋さん、

 

 え、私のところへ お礼の品…イヤイヤそんな…

 

催促したみたいで…気になさらないで下さいね。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  おはようございます。

 

天慶四年 941年 6月16日 朝廷は臣下の藤原忠文を征西大将軍に任命、

 

伊予の国など瀬戸内沿岸を荒らし大宰府を占拠していた藤原純友の征伐を

 

指示しました。藤原忠文軍は朝廷の正規軍であるし軍容も整っていたので

 

純友軍を徐々に追い詰め最後は敵将の純友を討ち反乱を収めました。

 

同じ頃 関東では平将門が私有地の争いが周辺に飛び火して大きな争乱

 

に拡がりそれが碁界を招いたすえ朝廷に反旗を翻します。一時は下野国、

 

常陸国、下総の一部などを抑えました。しかし 朝廷からの藤原秀郷を

 

大将とした追討軍に惨敗。  将門は討たれ 反乱は鎮圧されます。

 

どちらも国人、豪族の首領を担ぎ上げた反乱でしたがさすが朝廷からの

 

正規軍には太刀打ちできなかったようですね。

 

この二つの反乱を総して後年に承平・天慶の乱と呼んでいます。

 

背景としては奈良時代からの律令制度…中央集権制度の弱点である権力が

 

中央に集中し過ぎた結果、地方を顧みない政治に強い不満を持ったのが

 

ふたつの大きな反乱でした。その後、五十年ほどすると

 

『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』

 

 有名な藤原道長が太政大臣になり権力を掌握します。内政の最大の問題で

 

ある地方の国人、豪族の不満を抑えるために国人の子弟を朝廷の役職に就け

 

ていきます。そうすることで、国人と朝廷の貴族とのつながりを強め意思の

 

疎通を図るようになります。亦 各地の荘園の管理も任せて不平感を取り除

 

くようにしました。今までは中央からの一方的な命令だったのが地位をある

 

程度認めるようにしたことで国人たちは得心を得られたのでしょう。

 

人心術に長けた 藤原道長らしさが朝廷への不満分子を懐柔し中央集権制度

 

を維持させることに成功したようですね。地方の国人、豪族から見て朝廷の

 

正規軍が思ったより強かったことが抑制になったのかも知れませんよ。

 

 この道長の時代が藤原氏の全盛期で 今挙げた和歌を詠み上げるほど

 

本人はすべてにご満悦のようでした。

 

しかしそれから百年ほど経ちますと同じ境遇では国人たちの不満は飽き

 

足らずにいるところに朝廷内の紛争に巻き込まれ国人、豪族の代表となった

 

源氏と平氏の争乱を経て遂に武家の政権へと流れていきます。

 

朝廷が律令制度を全国に布告して(大宝律令701年)上意下達方式で政治と

 

いうよりは内部の権力争いや宮廷内で遊び呆けられたのは平安時代末期

 

までの五百年ほどでした。武家政権になってからも貴族は生き延びます

 

がそれまでの夢のような暮らしぶりは二度と戻って来ませんでしたね。

 

 

  おはようございます。

 

梅雨入りしたみたいな日が続きます。

 

1873年、明治六年、愛知県の報知新聞の記事に依りますと

 

三河の名刹、鳳来寺では、およそ十五万七千枚の大量の銅鏡を

 

四千七百九拾五円(現代の価値に直すと約2400万円異論あり‥)

 

で売り払って、工場や学校の建設費用に寄付をしようと愛知県庁

 

へ願い出たところ「無用を以って有用に充て就中三州の地は仏

 

に佞するの風習なるに却って時世察し慣習を脱却するは奇特な

 

事なりとして、大蔵省お伺いを建てた上、願意が聞き届けられ

 

たとある」

 

これも明治初頭の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の行き過ぎで、

 

古美術品の消滅や海外流出に拍車をかける残念な法律でした。

 

※ 銅鏡とは弥生時代末から古墳時代に埋葬された死者の

 

副葬品の一部だと推測されています。それがいかに名刹の

 

お寺であっても十五万もの大量銅鏡とは…と思っていたらその

 

お寺では中世(鎌倉時代~)に納鏡が流行ったそうでお経を唱え

 

るときのお布施の代わりかな…何れにしろ古墳時代の銅鏡とは

 

違ったモノのようでした。

 

※ 廃仏毀釈とは寺院と神社を同じ敷地内で祀らないこと、

 

当時の新政府がお触れを出しました。

 

明治初期(主に1868〜1870年代)に全国で起きた 仏教寺院・

 

仏像・経典・僧侶制度を破壊・排除しようとする一連の運動。

 

国家は神道を軸に近代国家をつくるため、 神仏分離令(1868)

 

が引き金となって爆発的に広がりました。

 

そもそも 本来神の教えを尊ぶ日本でしたが、そこへ中国から

 

仏教という宗教を取り入れ奈良時代の朝廷は国家の機軸としよう

 

なりました。そして元からの神様の扱いを工夫し共に祀る

 

心を持つようになります。それが神仏習合です。

 

神様と仏様、引っ付けたり離したりと人がその時の都合でやる

 

のですから迷惑なのはわかりますよね。