おはようございます。
天文十二年 1543年9月16日 戦国時代です
越後国の国人(豪族とか領主、土豪など呼び方は様々)が統治の
不満を唱えて反旗を翻します。
守護代の長尾晴景(26才)は 異母弟の13才の景虎に鎮圧の指令
を出します。と史書に載っているそうですが、後に軍神と敬服
された景虎(謙信)はまだ13才今なら小学六年生。
荒くれ連中を従え反逆者たちの征伐ができるのでしょうか。
当時武士の子、この場合は守護代の後継として一軍の大将と
しての心構えなどを老練な家臣を傅役として付け習わせます。
例えば織田信長は幼少からの傅役(もりやく)は平手正秀でしたが
あまりのあほう振りを諫めるために自ら自刃して果てています。
傅役は家中から忠義心があり理論立てて教えられる忠臣を選び
ます。景虎は幼少の頃から知に長け勇気もあり武術にも優れ将来
は優れた武将になるだろうと周りから期待の目で見られていました。
ところが父、為景が反乱軍との戦で計略にハマりあっけなく
戦死します。
後継は長男の晴景になりましたが、病弱で判断に劣る いわゆる
愚将と呼ばれる人でした。それでも越後国の守護代としてのプライド
だけはありましたが遊びに耽るばかりで家臣からの信頼を失います。
一方幼少ながら景虎の評判は上がる一方で晴景は嫉妬心を抱きます。
そして賢いらしいけど所詮は13才、荒くれ者が立ち回る戦場に出れば、
うろたえて泣きべそを掻くだろう…そうすれば評判も落ちてワシの
守護代の地位も安泰じゃわい…そんな姑息な考えが今回の反乱軍討伐を
命じた背景にありました。
周囲は英知があってもまだ13才、戦の経験もないと案じていましたが
案に及ばず 対戦相手の陣構えや地形を吟味し 素早く対策を練ると
側に就いていた家老たちがそれを見て吃驚仰天、戦上手と云われたワシ
でさえこのような策戦は浮かばなんだ、と感心をします。
実戦は景虎の描いたように運び快勝しました。
全軍を引き連れ戻る途中に景虎は家臣たちに 戦とは思いに依らず
簡単なモノだった、この先もワシは勝ち続けるであろう…
と初陣の感想を述べたそうです。
実際、この先には兄晴景を追い落とし守護代の職に就きその後には
幕府の要職の関東管領職に就き長尾景虎から上杉謙信と改名します。
謙信は毘沙門天を信仰し戦えば勝つ軍神と呼ばれ☆織田信長でさえも
一目を置き、戦国最強と呼ばれた武田信玄は晩年、枕許に重心を
呼び寄せワシ亡きあと困った時は上杉殿に頼めと遺言を遺しています。
【守護代】各国には室町幕府が任命した守護がいます。その下には
補佐役の守護代がありました。ですが実権は守護代が握っているのが
多いようです。織田信長の尾張国は守護は斯波氏、守護代は織田氏。
駿河国は今川氏が守護で実権も握っていました。
守護と守護代、地域にも依るようですが半分半分でしょうか…
☆…信長から 謙信に宛てた書状です。
越後国主・上杉輝虎(謙信)殿の御威光、天下に比類なく候。
このたび信長、将軍義昭公を奉じて上洛仕り候えども、 貴殿の
御武名には及ぶべくもなく、恐れ入り候。 今後、上方の儀につきては、
貴殿の御意を第一と存じ候。 何卒、御懇情を以て御扶助あらんこと、
肝要に候。 恐々謹言。
永禄十一年(1568年) 織田信長(花押)
読みにくいようでも繰り返してみると解ってきますね。
信長は他の大名にも書状を送っていますがここまで遜った文面は
ありません。
この時、信長は十五代将軍足利義昭を奉じ途中近江国の守護職の六角氏を一蹴し
上洛しています。いわば騎虎の勢いの筈の信長が謙信にものすごく気を使って
いたのかよくわかりますね。