おはようございます。

 

 わたしも一線を退いて早数年…あの突風のようなコロナ禍

 

をなんとかしのぐと目の前には今までにない自由な大空が視界一杯

 

に拡がってきました。

 

…と精一杯余裕しゃくしゃくしゃくとゆきたいところですが実は

 

精一杯背伸びしながら暮らしています。

 

ですから声はしても何も見えなこのブログ上だけでもエエ恰好を

 

したいものですね。

 

そんなわけですから 引退後は市役所や銀行、歯科医や病院などには

 

 サンダル履きにボロジーンズは取り止めてちゃんとした綿パンに五千円

 

以上のシャツに靴もやっぱり五千円以上…要は身なりをそこそこ

 

きっちりしておく。・・そこそこ…というのも難しいですがね(苦笑)

 

それとこれは大事なことだと後で気が付いたのですが、身なりが

 

良いからといっても病院の順番が上がるわけでもありませんし対応が

 

丁寧になるものでもありません。ただ知った人や同級生などに出会った

 

ときに色眼鏡で見られてる気がするのですね。

 

あれ、あそこに坐ってるの○○だったよぁ…知り合いを見つけた場合

 

先ず顔を見て 誰々ではないかなぁ…とわかればその人が傍にいれば声は

 

掛けやすいのですが、ちよっと離れていてその間に他の人がいたりすると

 

声は掛け難いでしょう。

 

ためらったりしていると諦めてしまい違うとこに目線を移すか、何となく

 

その人の容姿を見ませんか、いわゆるチエックでしょうか。

 

それは自分の記憶に残っている顔の輪郭や背の高さや体つきを過去と

 

照らし合わせる為なのでしょうか。それから時間があれば靴の色だとか

 

服装にも目が行くでしょうが 元々そんなに関心がない人だったら

 

そこでお仕舞い。

 

私の心理としては後輩に見られて同情心を持たれたり軽くみられたり

 

だけは避けたい…古臭い言い方だと 武士も食わねど高楊枝…いうもの

 

でしょうか。

 

次に同級生や少し先輩との出会いについてはこれはもう親しかったか

 

どうかだけで背伸びしたり下駄ばきでも構わない。となるわけですね。

 

ですが 浮世の風はso夜風なのか木枯らしなのか、どちらから吹いて

 

来るかわかりません。

 

まず 絶対わかってるのは同窓会くらいでしょう。

 

それ以外は知り合いでもどのレベルの人かわかりませんし予想も尽きません。

 

ということは進退に関わる容姿は諦めるとしてせめて身なりについては最大

 

公約数で行くしかないようですね。

 

 長々と言い訳みたいな話しをしました。

 

身に着けるものとしてはユニクロでも構わないでしょうが、もう一線を

 

(変な線じゃないですよ、定年です)超えてる身としては すこし落ち着きの

 

ある、さきほど挙げたくらいの価格帯の衣料がいいんじゃないかな…と

 

これも独善的かも知れませんが、そのような基準を設けました。

 

仮に一万円数千円のシャツですとブランドの種類も限られてきて柄や色目が

 

好みでないと他と着回しするのに、ついローテーションから外れてしまうのですね。

 

折角買ったのが無駄になって仕舞うと勿体無いじゃないですか。

 

買ったけど何故か気に入らなくなってしまう…プロ野球の監督でもよくあるそうですよ…

 

そんな後悔をしても軽傷で済むようにと五千円クラスいわゆる中級品で妥協するのです。

 

この心理の描写を稚拙な説明ではなかなかご理解を頂けないかも知れません。

 

 困ったことに前置きが…(ここまでの事です) 長すぎて本題までたどり着けません。

 

 

では、続きは明朝に・・

 

勝手な野郎ですね、お許し下さい。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  おはようございます。

 

ここにおもしろい資料があります。

 

慶應四年四月二十四日の新聞の記事からです。

 

慶應四年 1868年、十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還をして

 

二百六十五年の徳川幕府は終焉しました。その九月

 

に年号が明治に替わります。これを後に明治維新と呼びました。

 

その時の江戸の人口を新聞で発表していました。

 

◎ 町方支配上 町人総人数 四十五萬七千零六拾六人。

 

 男 弐拾弐萬八千九百五拾九人 女 弐拾弐萬八千百零七人

 

◎ 寺社門前町人 総人数  八満千三百九拾七人

 

 男 四萬零九百四十三人    女 四萬零四百五十四人

 

◎ 出稼ぎの者  男三千五百九十七人  女 一千零十九人

 

これ以外に支配違いの町人、能役者は除外。武士も除外。

 

◎ 区分けがありまして町方支配上 今で云うと住民登録をしている

 

町民(一般市民だけ)を数えているようです。

 

◎ 寺社門前町人 大きなお寺や神社の門前町に関わる人々。

 

武士も除外、俳優や役者も除外ですが推測するのに武士はおよそ五十万人ほど

 

いたようで町人と併せると約百万人。

 

ただし江戸市中の範囲とは今の山手線の内側の三分の一程度でした。

 

その内に武家屋敷が75%、寺社の敷地が15% 町民がの頃の10%

 

ひしめき合ってくらしていました。武士は大きく取って威張っていたんですね。

 

ちなみに当時ロンドンが300万人、パリ200万人、北京100万人。

 

江戸(東京)もやっぱり大都市だったのですね。

 

 

さて、如何だったでしょうか。

 

漢数字で少し読みづらくなりましたが、当時のそのままでの表記です。

 

臨場感を味わってみて下さい。

 

 

 おはようございます。

 

江戸時代のお話です。

 

享保十三年(1728年)ですから徳川幕府が開かれて百二十年ほど。

 

国の制度が色々修正されながら安定した幕府の基盤が出来上が

 

った安定期でした。

 

昨日のような小判の紛失、失態はこれから先の出来事です。

 

この4月23日に各地の代官所宛てに、これまで行っていた

 

年貢の検見(けみ)をやめて定免法(じょうめんほう)に切り

 

替えるよう指示を出しました。

 

※なにやら聞いたことない単語が出ましたが、この検見も

 

定免法もキーボードで打って検索したら スット出ました。

 

きっと日常的にある?単語のようですよ。

 

定免法とは、過去数か年の収穫量の平均を基礎として三ヵ年

 

五ヵ年、十ヵ年など期間を決めこの間に賦課する年貢の率

 

を定め、その一定額を、その年の豊凶(豊作・凶作)に関わらず

 

納入させるというもの。これは、年貢額を決めるために稲の実

 

り具合を検査する検見の役人の不正を防ぐとともに、収入の

 

安定が図れるという特長がありました。

 

六年前から試験的に行われていたものをいよいよ全国の幕府領地

 

に実行をさせる指示書でした。

 

今これを何度か読み返してみますと誠に買って勝手な話しだ

 

なぁと感じました。だって豊作なら未だしも凶作ってお米が獲れ

 

なくなるわけですから、それこそ 無理やり強奪しるのでしょうか。

 

この定免法のやり方に農民の意見は一切受け付けないのかそのこと

 

についての補足すらありません。

 

ところで一般の市民(昔ですから町民ですかね…)の税金というと地主、

 

家持ち(オーナー)の町民だけが 間口の大きさに応じた公役銀を(間口

 

…入り口の幅です、当時は公役銀…貨幣で支払うこと)収めていました。

 

いまでも江戸時代の街道を模した町屋をあちらこちらで見ますが、確か

 

に間口が狭くてそのぶん奥行きが長く造られていて庶民のささやかな

 

抵抗、維持を見ますね。

 

対して大勢の長屋や借家の住人には納税の義務がなかったのですね。

 

つまり農業からの収穫を財政の基盤とした税収入の構成はかなり歪(いびつ)

 

な制度になっていたようで現代からでは考えられませんよね。

 

 みなさん、士農工商って学校で習ったの覚えてますか…

 

農民は武士の次にエライ人、と幕府は決めていました。

 

そうか、わしらはお侍の次に偉いのか…下駄屋や大工よりも偉いんだ!

 

持ち上げられていい気になっていたんでしょうか。

 

実は おだてられてるだけで重い年貢、税金を払わされていたんですね。

 

お偉いさんからの甘言やおだてには要注意ですね。三百年も前から解り

 

きったことのようです。

 

さて、こんな制度について 今晩あたり色々と語ってみたら いいお酒の肴

 

お茶請けになりそうですね(笑)