音楽は時間の中で展開するものですから、例えば10分の曲なら、聴き終わった時には聴き始めた時の10分後の世界にいます。聴き終わった時には、聴く前とは確実に何かが違う世界に聞き手を連れていくこと、映画音楽の編曲家として常に意識していることです。
映画の中の各場面には、すべてに目的があり、物語を進行させるために(時には気づかないぐらい些細なことかもしれませんが)何かが変化します。幸せな日常を楽しんでいた主人公が、突然会社を解雇されたり、恋人に振られたり、トラックにはねられたりと、(うーん、ろくな展開じゃないな)、様々な出来事の連続によって、はじめから設定してある物語のゴールへと観客を導いていきます。
良い映画なら、ゴールにたどり着いた時に(その結果が個人的に好きか嫌いかは抜きにして)それが必然的だと思え、達成感があり、満足できます。それは伏線としてゴールを予感させるものが色々なところに散りばめられているからです。でも映画によっては、無理やり付け足したようなクライマックスもあって、「え? はぁ?」とやり切れない気持ちで映画館を後にすることもありますよね。
世の中には「音楽の方向性」を意図的に排除した作品もありますが、私が良い音楽だと感動する作品には、しっかりとした「方向性」があります。聴きながら「音楽がゴールに向かって進んでいる」と実感でき、その旅の途中で出会う様々なエピソードに必然性が感じられ、目的地にたどり着いた時に満たされた気持ちになります。
私がオーケストレーションするときには、常に「聞き手をどこへ連れて行きたいのか?」というゴールを第一に考えます。その目的地では、どの楽器がどの音域でどんな強弱でどんな響きで……と完全に頭の中でイメージできるまで膨らませます。その後で、このクライマックスに到達した時に最も大きな達成感(幸福感)を与えるためには、「その一つ前の場面はどう演出すればラストが際立つだろうか?」とか「この旅はどこから出発すれば良いのだろうか?」と逆算しながら構成を考えていきます。
失敗したオーケストレーションに多いのが、「とりあえず8小節単位でメロディを担当する楽器や担当を演奏する楽器を変えてみました」「クライマックスでは全員総出演で大きなサウンドにしたから満足でしょ?」みたいな編曲です。どれだけ各8小節が満足できるサウンドであっても、時間の中で展開する音楽ですから、時間の流れの中で意味を持っていなければ、つまり「物語」になっていなければ、質の悪いメドレーのように感じられます。
オーケストレーションによって「物語」を伝えることにおいてチャイコフスキーの右に出る作曲家はいないと思っています。特にくるみ割り人形(op.71)はオーケストレーションのアイデアの宝箱のような作品です。その中の「Pas de deux - Intrada」という曲は、何度聴いても鳥肌が立ちそうなぐらい、そして涙が出そうになるぐらい感動します。音大で何度かこの5分の曲の編曲だけを取り出して3時間のセミナーをしたこともあります。
YouTubeで見つけられた中ではこれが一番良い演奏でした。21分03秒のところから「Pas de deux - Intrada」が始まります。できれば同じGergievとMariinskyのCDを買って聞いてください。iTunesでこの曲だけ買うこともできます。以下、タイミングはこのYouTubeのビデオのものです。
この曲のメロディの核のアイデアは「ドーシラソファミレド」とただ音階を下りるだけなんですよね。チャイコフスキーはメロディメイカーですから、凝ったメロディもたくさん書いていますけど、ただの「ドシラソファミレド」をここまで感動的に聴かせられるのかと、正直悔しいぐらいです。この音階を下がるアイデアが曲の第1部では「ドシラソファミレド」と「ラソファミレドシラ」と長調版と短調版の組み合わせで登場し、第2部を間にはさみ、第3部では「ドシラソファミレド」「ドシラソファミレド」と長調版+長調版で再現されます。これはクラシック音楽では特別なことではありませんよね。
最初に登場する「下り音階」のアイデアは、チェロによって演奏されます。(21:17)(楽譜の1)ハープと弦楽器のピチカートの中で登場するチェロは、もうこれだけで感動的です。チェロにとっては結構な高音域で情熱的で力強く聴こえます。しかし同時にチャイコフスキーやメンデルスゾーンらが凄いのは、学生オケやアマチュアオケでも演奏できるギリギリの範囲に必ずとどまっていることです。学生オケだったら、このG3より高い音は書きたくありません。
そのままチェロのメロディが続く中、2番めに出てくる「下り音階」はチェロに対する副旋律として、まずフルートとクラリネットによって長調版が、続いてオーボエとファゴットによって短調版が歌われます。(22:07)(楽譜の2)
良い音楽には「統一感(同じ部分)」と「コントラスト(違う部分)」の両方が絶妙なバランスで必要です。「同じ部分」がなければデタラメに聞こえるし、「違う部分」がなければ退屈です。
チェロの主旋律に対する副旋律として、弦楽器に対して木管楽器という違う音色で、しかもチェロの単色に対してフルートとクラリネットという複合色で、そしてチェロのG3という開始音に対して2オクターブ上のG5と1オクターブ上のG4と音域もしっかり差別化し、しかもチェロは1つの音域だけど木管はそれぞれオクターブを重ねるというように、しっかりと「違う部分」を演出しつつ、主役がチェロであり続けることと下り音階のアイデア自体は「同じ部分」です。
この木管の部分、最初の「フルートとクラリネット」と次の「オーボエとファゴット」で楽器の組み合わせを変えることでで音色を変化させているだけでなくオクターブ音域を下げているのも大切なポイントです。これこそがチャイコフスキーが多用する「魔法」なのですから。
チャイコフスキーの演出法というのは、ある楽器の音色やある音域の音色を重要な場面の前に予告編のように出してしっかり印象付けておいて、それをすぐに引っ込めて焦らすことによって、観客に無意識にその予告編で見せた音を「もう一度聴かせてくれよ!」と熱望させるように仕向ける心理作戦です。
もし予告編がなかったら、僕らは「何かが物足りない」とか「まだ全部出し切っていない」という不完全燃焼さを味わうことはなかったシチュエーションなんです。でも予告編でその音色の存在を知らされちゃったものだから、中途半端にその味を知っちゃったものだから、その後にどれだけ素敵なサウンドを聞かされても「その音色」抜きだと完全には満足できない耳になってしまっているのです。
第1部のクライマックスは、「下がり音階」がこれまでで一番大きな編成で豪華に歌われます。(22:25)(楽譜の3)上がフルート、第1クラリネット、第1ヴァイオリン、下がイングリッシュホルン、第2クラリネットに、冒頭を印象づけたチェロです。これまで「下がり音階」を演奏したのが弦楽器と木管楽器ですから、その2種のセクションが今までで一番大きな編成で歌われたら、普通なら大きな達成感があり、ゴールに到着したような満足感があるはずじゃないですか。
でも何かがまだ足りないような不完全燃焼な感じがします。たぶん、聞き手の多くはそれに気づいてさえいないはずですが、でも完全には満たされていないのです。それは、少し前に印象づけられたG5の音域が第1部の終わりでは省かれているからです。しかも、直前で「下がり音階」を歌ったオーボエとファゴットのダブルリードの音色が欠けているのも物足りなさを助長します。(一応イングリッシュホルンを目立たなく使ってはいますが。)続く第2部の出だしはオーボエが主役なので、無意識にオーボエを求めるように感情操作することは、第2部の出だしをより効果的に見せられます。
音楽はまだゴールに到着していないわけですから、ここで完全な達成感を与えてしまっては台なしです。でも第1部の終わりですから、充実したサウンドにしたい。充実したサウンドにしながら同時に不完全感を与える、これがチャイコフスキーの予告編の魔法です。
第2部についても語りたいことはいっぱいあるのですが、今回の目的からは外れるのでまたの機会にします。ただ曲の背景にこっそり音階の駆け上がりのアイデアがいっぱい隠れているのは面白いですね。音には引力があって、上がった音は必ず最後に降りてくるので、やがてやってくる最後のクライマックスでまた音階を駆け下りるのを潜在意識の中で期待させます。
あと伴奏の中の8部音符を連打しているアイデア、どんどん担当する楽器が増えていっていますよね。オーケストラでクレッシェンドを作りたいとき、ただpをmpにしてmfにしてfにしてと強弱記号を変えていくだけではクレッシェンド感は出ません。実際に楽器の数を増やしたり音域を拡大することでしか出せないのです。クレッシェンドやディミヌエンドをしっかりオーケストレーションすることも大切なスキルです。
さて、ここまでは背景にこっそりホルンがいたぐらいで、金管はずっとお休みでした。それが第2部の終わりで唐突にトランペットとトロンボーンのファンファーレが聞かれ、「下がり音階」のアイデアの変化版を思いっきり強奏します。(24:06)ffで全ての音符にアクセントついていますから、どんなに鈍い人でも金管の存在を意識するように力強く印象づけます。
ここでは「下がり音階」そのものではなく、その変化版が歌われていることが重要です。ここまでされたら、ちゃんとした「下がり音階」の方も聴きたくなるじゃないですか? 「トランペットもいるよ!」と印象づけるだけでなく、「トランペットで下がり音階を歌わせて欲しいな」と無意識レベルで切望させる見事な予告編の魔法です。
続く「短い第3部」的な部分で、「下がり音階」がバスクラとコントラバスを除く全木管楽器と全弦楽器によって盛大に歌われます。(24:34)(楽譜の4)第1部最後で出し惜しみしていたG5の音域だけでなくさらにオクターブ高いG6も加わって、4つの音域でこれだけたくさんの楽器が盛大に歌えば、普通だったらここがクライマックスに感じるはずじゃないですか!「ゴールに到達したんだ」という震えるぐらいの感動に涙がでるはずじゃないですか! しかも「長調版」+「短調版」ではなく、「長調版」+「長調版」ですから、これまでの音楽の文法が植え付けられている我々は本来なら満たされるはずなんです。
それなのに何かがまだ足りないと思える!!!! 直前にあれほど露骨に存在をアピールして印象づけた金管楽器が「下がり音階」に加わっていないからです。チャイコフスキーはこの後にもう1つゴールを用意しているので、ここで満足されたくないのです。
この次のセクション(24:51)、私には「これじゃないんだ、これじゃないんだ、これじゃないんだ、これじゃないんだ、これじゃないんだ、これじゃないんだ、これじゃないんだ」とオーケストラが叫んでいるように聴こえて平常心ではいられません。ここまで煽って煽って煽って煽って煽りまくるのは、ちょっと恥ずかしくて私にはできませんけどね(笑)。
そして最後の最後に、トランペットだけが高らかに勝利宣言するかのように「下がり音階」を歌う力強さ、充実感、高揚感、達成感、もう言葉では形容できないです。(25:09)(楽譜の5)
もう一度言いますけどアイデア自体はただの「ドシラソファミレド」ですからね。そのただの「ドシラソファミレド」をこれほど感動的に聞かせられたのが、オーケストレーションによる演出力です。
もしこの曲を知らずにメロディだけを渡されてアレンジしろと言われたら、私は最後のクライマックスは木管楽器、金管楽器、弦楽器の大合奏でドシラソファミレドを歌っちゃったような気がします。でも、それではこれほどのインパクトも感動もなかったでしょう。
もし最後にトランペットだけの見せ場を用意しているのなら、第3部の直前に露骨にトランペットを登場させるなんて思いつかず、最後の最後までトランペットを出し惜しみしてしまうのが凡人の発想です。でも、いると知らなかった楽器が最後に出てきたらビックリはするけど満足感はありません。劇中に全く登場しなかった人物が実は真犯人というミステリーを読まされている気持ちです。
トランペットで「ドシラソファミレド」が聴きたいという願望を無意識に抱かせて、それを焦らして、煽った後で叶えてあげるから、これだけの満足感があるのです。ゴールにインパクトを与えるためには、その直前との差別化が大事です。トランペットという単一の音色で1つの音域だけで歌われるのがラストですから、その前は4つの音域で金管を除くすべての楽器による大合奏にする。その大合奏で完全には満足させずに、どこか物足りなさを与えるためのハッタリ的な予告編の魔法。
冒頭のチェロから最後のトランペットまで、しっかりと計算された上で物語が構築されています。
単にバランスの取れた譜面を書くとか各場面の対比をしっかりつけるとかは、テクニックさえ身につければ難しくありません。でも楽器の選択によって聞き手の感情を操作し物語を伝えられること、これ自体が芸術だと思います。映画音楽のオーケストレーションは、ここでドキドキして欲しい、ここで笑って欲しい、ここで泣かせたい、の連続です。
私が敢えて「本業は作曲家です」ではなく、「本業はオーケストレイターです」といつも自己紹介しているのは、ただの「ドシラソファミレド」だけで聞き手を感動させたいと思っているからなのです。一度聴いたら忘れられない美しいメロディを生み出すのも楽しいけど、どんなにつまらないように感じるアイデアでもワクワクさせられるって夢があるじゃないですか。
【追記】チャイコフスキーの音楽はすでにパブリックドメインなので、以下のリンクからスコアがダウンロードできます。
http://javanese.imslp.info/files/imglnks/usimg/1/15/IMSLP03572-Nutcracker_-_15__to_pg._445_.pdf
【追記】チャイコフスキーの音楽はすでにパブリックドメインなので、以下のリンクからスコアがダウンロードできます。
http://javanese.imslp.info/files/imglnks/usimg/1/15/IMSLP03572-Nutcracker_-_15__to_pg._445_.pdf