井上慎平著『弱さ考』から学んだことで、最も感銘を受け、救われたところ。 


 それは、「『愚かさ』とは何か?」を語ったところである。 


 「愚かさ」とは何か? 


 知識がないこと?


 否、人はどんなに学んで、知識を得ても愚かなことをする。 


 人を殺したり、お酒を飲むこと?つまり行動することが愚かなの? 


 否、状況次第では、どちらも愚かとは言い切れない。 


 「しないでおこうと思っていたのに、ついやってしまった」 


 この「失敗」こそが愚かさである。


 「つい」の愚かさは「自己コントロールの失敗」であり、つまりは「理性の失敗」でもある。 


 人はこの「愚かさ」と「理性」をあわせ持つ存在。


 その人は「理性的」か「愚か」か?ではなく、一人の人の中に「理性」と「愚かさ」は同居している。 


 私が「理性」的にいられるのは、たまたま運が良かったからだ。衣食住に困らない環境、心身もそれなりに健康でいられる環境に育ち、今も居られているからだ。 


 もちろん、人生には紆余曲折はあり、自分が努力した結果もある。


 けれど、すべて自分の努力で勝ち取ってきたものではない。


 いくつもの偶然性に支えられ、私は私の「理性」を獲得し、「能力」を獲得していった。


 だから、獲得という言葉自体がふさわしくないのかもしれない。 


 「理性」も「能力」も環境との相互作用で、たまたま今の私に「内的な資源」として積み重なっていったものだ。 


 それは今も環境との相互作用によって、発揮できたり、できなかったりする。


 だから、私は今も時に「理性」的であり、時に「愚か」だ。 


 人は「理性」と「愚かさ」を同居させた存在。環境次第でどちらにでも振れる。 


 だからって、何をしてもいい、訳ではもちろん無い。


 自分の「愚かさ」は、誰か他人を傷つけることがある。 


 その責任は、自分にある(と社会的に取り決められている)。 


 「責任」という概念は、偶然性が引き起こした「愚かさ」を個人に還元する性質を持つ「社会的な決まり」だ。 


 でも、それがないと「社会」は成り立たない。 


 交通事故で人が死んだりしたら、加害者は「私は悪くない」と語ることは許されない。 


 被害者の「感情」を引き受ける先がないことは、被害者を苦しみに留めてしまうことになるからだ。 


 人は因果関係の物語を組み立てることで、時に「感情的に」救われるからだ。 


 「あいつが酒のんでスピード出しすぎたから、私の大切な人が死んだんだ、あいつが悪い!憎い!」 


 と恨むことで、悲しみに留まり続け自分が壊れるのを防ぐことができることもある。


ずっと許さないことで、逆説的に生きていくことができることもある。 


 だから、社会的に「責任概念」は必要な取り決めである。 


 けれど、「理性」と「自己責任」だけに人を押し留め、生きるように縛る社会は窮屈で、至極生きづらい。 


 適度に「愚かさ」を表出できる社会が、寛容で生きやすい。 


 どこまでも「理性」的な人なんて、あまり魅力的に感じない。AIロボットと暮らしているのじゃつまらない。 


 だから、私は「愚かさ」を表出できる、「愚かさ」が許される社会がいい。


 そして、その「愚かさ」が誰かを傷つけたことが分かったら、素直に謝る。「ごめん」と言う。 


 もちろん、すべての自分が犯した「傷つけ」を自分で気がつくことはできない。


そっと私から去って行った人も数多くいるはずだし、これからもいるだろう。 


 でも、気がついた時は謝る。それしか方法はない。


 この「後ろめたさ」を感じながらも時に「愚かさ」を表出する(してしまう)。それがいいし、それしかない。 


 だって人は「理性」的であると同時に「愚か」なのだから。


 だから、人にも「理性的」過ぎることを求めない。


「失敗」し、「不完全」であるのが人だ。 


 人の失敗に対し、自分が迷惑を被り、時に「傷つける」言葉を発してしまうこともあるかもしれない。それもまた私の「愚か」さ。 


 「言わないでおこうと思ったのに、言ってしまった」は愚かさの一つだ。 


 そうやって傷つけてしまったら、「謝る」。それ以外にない。 


 「愚かさ」を表出しないように「理性」的に自己コントロールしようとする努力は必要だ。 


 けれど、完璧は無理だ。  


 だから、「後ろめたさ」を感じながら、私は生きていきたい。 


 「後ろめたさ」がない人はどうしても「上から目線」になってしまうから。 


 ここが井上さんに導かれた今のところの私の答え。道筋をつけてくださった井上慎平さんに感謝いたします。


 参考文献:井上慎平『弱さ考』ダイヤモンド社 2025.3