誰かの思いを紡いで行く。

また誰かはその思いを紡いで行く。

そして誰かは紡いだ思いにきっかけを見いだせる。


一つ階段を上り
一つ階段を下り

閑寂とした空気に溶け込んで行く。



昔聞いたことのある曲に身を任せながら、
その合間をぬって運動部のかけ声がする。

壁に反響していく音楽や声が混ざり合って、その中間に居ることを幸福に思う。



人の諍いに
冷たい心を持ちながら、否定する。




鳥は、自由に餌を求めて、翼を羽ばたかせる。
火は、燃える可能性のあるものを燃やして行く。
人は、自らの居場所を探して新しい落とし物を拾う。



その連続の中で、意味付けをして、また何かを思う。

果てのない草原に君は降り立つ。

小さな風が背中や髪をそっと撫でている。
自然と調和していく人のあり方が、それを美しいレイアウトにしている。
葉っぱにあたる雨の音は、人の気持ちも同時に吸い込んで。
そんな夜にやっと安らかになれる。


君は、草原の上に立ち上がる。



向かうべき方向が無いままでも、草原と識別出来るだけの光がある。
隣に誰かが居なくてもそっと微笑むだけの力がある。
その微力が、君をいつだって儚く、美しくしている。
肌に髪の毛先があたり少しくすぐったくなる。帽子はそんな光景に呼応するように、不規則に、そっと、なだらかに揺れている。


草原の先。君は、方角も分からずに歩みだす。



辿々しくも歩んで行けるだけの筋力がある。
それを維持しようとする気持ちがある。
躓く障害物はなく、風になびく草のこすれる音が心に染み渡っていく。



入れるもののないカバンを捨てて行く。



終わりのない進路を、思うがまま決断していく。
コンパスも地図も無い道先に、もっと美しいものがあることを知っている。
そんな希望を壊れないように抱いている。



空は、それを奨励するように晴れて行く。



きっかけのない門出に迷うことはない。
その迷いにいみがないことを知っている。




千差万別の出来事の中で、君が出来ることを、君は知っている。
行動するか、しないか。そのちっぽけな2択だけだ。

君は迷わずに進行していく。



歩み続けることの美しさを、君は知っている。
さようでなければならないなら。


さようならって意味なんだ。

さようならって言葉は、世界中の挨拶言葉を探してもなかなかない表現なんだ。
故にこれを聞く人は不思議に思うし、日本人はさようならって言葉が嫌いな人が多いんだよ。


もう会えない様な気持ちになってしまうみたいだからね。

でも、「さようでなければならないなら」という言葉は、美しいと思う。
日本人らしくて、その場の分別や区別、距離感。切り替えみたいなものがその言葉に集約されている。


そうしなければならないならって意味になるんだ。



そうしなければならないから、僕たちは、私達は離れていく。

そうしなければならないから、僕たちは、私達は帰っていく。



僕はこういう言葉を大切にしたいなって思うよ。

消えていく語彙の上に流行り言葉が覆いかぶさって。
本当に意味のある言葉が失われていく。

簡略化した表現が、重く美しい言葉を消してしまう。
そんな世の中が、僕は悲しいと思うんだよ。








僕は、自分の人生というものをまた、考えている。
役割とか、考え方とか、道徳とか、生き方とか。

でも、正しさの先に、自分が居るのかが最近分からなくなった。

高尚な気持ちで居たい。そうありたい。
それは、願って美しいものであって、なってしまえば空虚なものなんじゃないかって思うんだ。


哲学者や宗教家は、集団の中や社会の中での自分のあり方を客観的であったり、主観的に見定めている。僕は、そんな人たちの言葉の端々と、雑誌に書いてある人間性の指南がどう変わるのかが分からなくなってきたんだ。


学問は時代を通過して回転している。
回転しているから、また、同じ位置に戻ってくる。
歴史は繰り返す。

そして失っていく。
得ていく。


どれだけ便利になっても、人の心は満たされない。
満たされるのは、広がってしまった欲求だけなんだ。



ただ、普遍的な価値観もある。
それを守り、通過していく事は大切だ。






















僕は、自分が欠陥だらけなのを知っている。
有言実行も出来なくて、良い人を疎ましいと思っている。
弱い人を助けたいと思う反面、自分がそういう状況にないって言い訳をする。
腹立たしく思う事もある。



僕は、自分が卑屈な事を知っている。
人に与えられた傷を、いつまでも背負いこんで、悲しみの淵を歩いている。
群れから離れた動物の様に。

そんな悲劇を、自分が認めている。


人生も価値観も、自分自身の力で変わると分かっている。
でも、それが変わらなかった時、本当は変わらない事もあるんじゃないかって疑ってしまう。

いつだってそうやって、進んでは振り返ってきた。





星の光は、ずっと何光年も離れた場所から届く手紙だ。

今見える星の光は、何光年も前に発せられた光で。
そこで光る星星は、本当は存在していないかもしれない。



僕も、存在しているようで、存在していない。



一番楽しいはずだった20代が、こんな惨めな毎日になって。
僕は毎日が絶望的だと思っている。


みんなの数パーセントも僕は笑っていない。
笑おうとして笑って。
意味のない時間を、空間を、

ずっと歩き続けている。
無感情のまま、人の話を興味ありげに聞いている。
そんな人形みたいな毎日しか送れないでいる。



自分が不幸だと思っている。
死よりも不快な生き方を選んでいる。



もし誰かと結婚して自分の遺伝子を受け継ぐ子供が出来たら、可哀想だと思う。

その責任から、この世から逃げてしまう様な気がする。
そんな勝手な自分を僕は気持ち悪いと思っている。



僕は僕を見る目が誰よりも現実的で、悲観的だ。


それを誰が否定しても、僕はその考えを否定出来るほどの対案を持っている。

自らを蔑む事に長けている。



僕は毎日を悔やんでいる。

生きる事も、生まれてしまった事も、友人が居る事さえも。


誰かを不幸にする能力を僕は持っている。
他人を妬んでいる。
僕はそんな底辺でずっと思い酸素を吸っている。


そして欠陥を治癒することもしないまま、誰かに迷惑をかけて生きる。

無様だと思う。



そんな僕を、誰が愛してくれるのだろう。
理解されない毎日は、理解しようとしない毎日に変わっていく。


そんな僕を、いつか、誰かは愛してくれるだろうか。