GO fish [DVD]/グウェネヴィア・ターナー,V・S・ブローディ


これまで、適当に思いつくままレズビアン映画を紹介してきましたが、「GO fish」はどの作品以上にレズビアン史的に重要な作品です。1994年の作品で主演はグィネヴィア・ターナー。グィネヴィア・ターナーと聞いてピンと来る人は、もうどっぷりビアンカルチャーに浸かっている証拠でしょうw 彼女は「Lの世界」のあの'Lesbian X'ことギャビーです。でも、本来はギャビーは、「GO fish」のマックスと言うのが正しい。というのも、「GO fish」は10年も前に「Lの世界」にも参加した脚本家によて制作され、'初めて'レズビアンによる等身大のレズビアン映画として、レズビアン史のマイルストーン的作品だからです。

でも、お薦めか、と問われれば人によると答えざるを得ない。それでもお薦めしたいので今から基本的にこの映画の弁護をしますw 映画の本筋は至極単純で、恋愛にご無沙汰で、単調な毎日を過ごすマックスが、予期しなかった人と恋に落ちるというお話。超低予算としては商業的にも成功しているし、なんだかんだ人気のあった「Lの世界」の脚本家だし、一般受けしそうなんですが、なんせ小難しそうな大物映画批評家のJonathan Rosenbaumが94年のトップ10リストに入れちゃったぐらいなので、一癖も二癖もあるんですw

癖があるというのは、見慣れているものから外れているという意味で、です。まず、これ、白黒映画なんですね。実は予算がないから、というある意味、最も妥当な理由があるのですが、そんなこと知らない人にとっては、たいした理由もないのに白黒で無駄に気取って観にくくしていると捉えられるようです。それから、キャストが全員アマチュアなので、演技も当然ぎこちないもだし、普通ならスポットライトを浴びることはなさそうな人たちが出演しています。グィネヴィア自身もインタビューで認めていますが、キャストがブサイクすぎると批判されたようです。個人的には、キャストのブサイクさより際だったファッションセンスの問題だと思うんですがねw 容姿的には一番恵まれていると思われる主人公でさえ半ズボン(ショートパンツではなくて)に野球帽を反対にかぶってますからね。あえてブッチ/フェムでざっくり分ければ、主要登場人物全員ブッチと説明すれば、なんとなく映画の雰囲気が分かるかも。実際、このファッションセンスがこの映画の好き嫌いを分けるのかなと。やっぱり、男女であれ、女同士であれ、きれいなカップルの方が目の保養になるし、まだまだ社会での偏見があり、メディアのでのレズビアンの描写が少ない中、こんな映画をストレートの人が見たら、みんなレズビアンはこんなんだと見られてしまうのではないかという恐れからバッシングに走るレズビアンも多くいると思われます。

ちなみに、いくつかのVHS/DVDパッケージパターンがあるようですが、ある一つのVHSパッケージはこちら↓



上のパッケージ写真と比べてみれば一目瞭然ですが、グィネヴィアは完全にフェミニン度がアップしていますし、後ろ姿の裸の女性は誰?って感じですw ここまで露骨なマーケティング戦略を見せつけられると逆に笑えてきますよねw まぁ1995年って言えば、まさにwindows95の年で、今のようにネットが普及していないので、パッケージイメージは今より重要だったんでしょうね。それで、パッケージを見て、ホットなフェム二人の絡み目当てで観た人は、なんだこれ!?ってなったことでしょうw amazonのレビューには、全然期待していたの全然違う!これ観るぐらいなら「Lの世界」観ろとか、もうちょっと穏健な意見だと、この映画はアート作品なので娯楽を求めているのなら他を当たれなどと書かれていますw

だから、「GO fish」 を鑑賞するに当たってはそういったことを念頭に置いておいた方がいいですが、「Lの世界」を観た事がある人は、対比しながら観るのが面白いと思います。「Lの世界」は逆にレズビアンコミュニティをグラマライズしすぎだ、フェムが多すぎると批判されました。同性愛に否定的な人にとっては、レズビアンを実情以上に美しく描くのは問題点を隠していて詐欺的だと主張するだろうし、同じレズビアンでも自分と似た人をドラマの中に見いだせなければ、除け者にされたと感じるだろう。だから、この二作品はクリエーターが一部被っているものの、相補的と言えると思います。女性器の呼び方について話し合っていたり、'Never Have'ゲームをやっていたり、「Lの世界」でも使われたネタが出て来て、あ、オマージュ(多分)だったのかと比べて観ることで新たな発見もあります。

上で”アート作品”とのレビューを紹介していますが、白黒=アート作品と言う訳ではありません。今時、白黒で撮る監督は作家性の強さがありそうですが、単に予算がなかっただけですし、出演者もアーティスティックではありません。強いて言うなら、音声とか消せば、キャサリン・オピー展をちょうど開催中の美術館の関連作品として暗い部屋で上映されてそうって意味では”アート作品”ですw 映画のメッセージの一つはレズビアンもストレートと同じように毎日を生きて恋をするんだよって事なんでしょうが、キャサリン・オピー作品のポートレート程ではないにしろ、ダイク特有の雰囲気が映像に醸し出されていて、95年という新しくて古い時代性と絡まってノスタルジックな気分になりました。10年以上前の作品で、今はレズビアンを扱った作品は多くあるので、目くじらを立てる事なく温かく観てもいいんじゃないでしょうか。

総括をすると、等身大のレズビアンを描くという始発点から、レズビアンコミュのあるあるネタ、コミュニティ内部の論争、などなどかなりを網羅しようとする制作者側の野心が伺えます。そして、グィネヴィア・ターナーのインタビューTokyo Wrestlingのサイトで読めるので是非合わせて見て頂きたい。「GO fish」はグィネヴィアの当時の彼女で、「Lの世界」の監督/脚本家でもあるRose Trocheと共同で制作を開始したのですが、途中で別れたエピソードなど率直に語ってくれているので、いち鑑賞者として制作者との距離感の近さが非常に良いです。これを読めば、低予算であることも魅力に変わるでしょう。
Lip Service Series 1 [Blu-ray] [Import]


「Lの世界」が終わってしまって、新しく見るものないかなぁと思って、「Lip Service」どうなんだろうって考える人も少なからずいたと思います。「Lip Service」はイギリスのBBC Threeで2010年にシーズン1が始まった連続ドラマです。今のところ、シーズン1の6話分の放送が終了し、シーズン2が作られる予定だそうです。

まず初っ端っから、「Lの世界」のシェーンがジェニーが死んだ後、ニューヨークに引っ越したっていう設定かと思ったぐらい、笑えるほどにシェーンを意識したキャラが登場します。フランキーって名前なんですが、彼女がある不可解なメーッセージを受け取った事から、故郷のグラスゴーに帰郷し、出生の秘密を探るという一応の縦軸があり、元カノのキャットを中心とした人間関係が横軸となり展開していく設定です。元カノのルームメイトもレズビアンなので、キャットの会社の同僚、そして弟を含めた五人の主人公たちの三人がビアンで、それぞれに女性の恋愛対象が現れるので、レズビアン度からいっても「Lの世界」と比較される事が不可避でしょうね。

さて、同じレズビアンが話の中心という事は同じですが、もちろん違いもあって、まず一番の違いは人気で、「Lの世界」>>>>>>>「Lip Service」かなと。これは、単に「Lの世界」が連ドラとしては始めての”レズビアン作品”だったこともあるし、「Lip Service」の予算の低さとか差し引いて考えないとフェアではない要素もあるけど、やっぱり何をとっても中途半端なせいでしょう。

まずとにかくフランキーの出生の謎が陳腐すぎるwなぜこんなストーリーラインをいれたのかの謎の方がまだミステリアス。一応思いつく理由は二つ—「Lip Service」版シェーンに不幸な生い立ち設定を付けるため。そういえばシェーンも幼少期の不幸話で女が釣れるみたいなこと言ってましたしねwもう一つの理由は—ドラマのテーマをレズビアンからシフトしたかった。実際、「Lの世界」に比べれば、"人間模様を描いたら登場人物がたまたまレズビアンだった的"視点が顕著です、これがリベラルなのかどうか、成功しているのかどうか言えばNOなんですがねw

さて、ストーリーなんて関係なくてシェーン様!みたいな人もいたと思うので、フランキー様!みたいな人も出てくるのかと考えてみましたが、シェーン程ストレート人気も高くならないと思います。まず演じている人がストレートでそれが演技に出ちゃってます。そう思えば、「ボーイズドントクライ」のヒラリースワンクってオスカー取っただけあるなぁって相対的に気づかされます。ヌードに関してですけど、セックスシーンは「Lip Service」の方がグラフィックな気がします。でも「Lの世界」みたいにセックスシーン以外でもやたらと脱ぐって程でもないので、ヌーディティ自体は少ないかも。

最後に良い点もあげとくと、キャット役のローラ・フレイザーだと思います。絶世の美女タイプではないですですし、初め見たときは、フランキーの元カノっていう設定に信憑性が足りないと思ったんですが、段々説得力が出て来ました。これは、ローラの女優としても魅力につきるなと。先ほどから、フランキーとシェーンばっかり比較していますが、とにかく設定が似通っていて、フランキーもなにかあるとすぐにその辺の女の子ナンパしては、って繰り返すんですよね。でも「Lの世界」ではあまり犠牲者の痛みが描かれていない。シェーンに関わらず、傷ついた時の演出が大量の精神安定剤に走ったり、公共の場でテーブルをひっくり返して喚いたり、リストカットに走ったりでは、痛みは浮き上がってこないんですよね。それに比べれば、「Lip Service」はフランキーのようなキャラクターを出してはいるけど、ちゃんと痛みが伴っていると思います。むしろ、「Lの世界」のシェーンみたいな人が実際いたら、周りはこんだけ迷惑なんですよって言う主張が根底にあるのかな、と思うぐらいwでもそれもプロデューサーの意図というより、ローラ・フレイザーの演技力に全部起因するだけなのかもw

「Lip Service」自体はネットですぐに見れると思いますが、日本語訳は正式なのは今のところ望み薄じゃないでしょうか。どっかに熱烈なファンか熱烈な勉強家がいて、訳されてるのかもしれませんので是非チェックしてください。





プレシャス [DVD]/ガボレイ・シディベ,モニーク,ポーラ・ハットン


原題 Precious: Based on the Novel Push by Sapphire

2009年度アカデミー賞作品部門にもノミネートされ、ひと際目立つ主演女優ガボレイ・シディベの存在もあって鑑賞された方も多いと思います。ストーリーは貧困極めるハーレムに住む、極端に肥満でまともな教育も受けていない高校生のプレシャスが、父親からの継続的な性的虐待により二人目の子供を身ごもり、学校を退学させられるところから、フリースクールの教師とソーシャルワーカーとの出会いを通じて
個人の尊厳を取り戻し、ささいな希望を持つまでの過程を描いた作品です。

個人的に思い入れのあるトロント国際映画祭の観客賞を取ったので必見!と思って予備知識をあまり持たずに鑑賞しました。でも、ゲイダーというか、ある作品を観て、監督なり脚本家なりがゲイだって思う事ありませんか?統計を取ったわけでもないのに言いますが、ある人を見てゲイか判断するより命中率が高い気がしますw この作品では、明らかにレズビアンの役は一人しかいないし、最近では脇役がゲイなんて珍しくないので、一見レズレズしいわけでもないのですが、鑑賞中、私のゲイダーが鳴り響いていました。さらに監督も女性だと確信していたので、観賞後、監督が男性だったのには意外でしたが、彼はゲイで原作のサファイアがレズビアンだと分かって、やっぱり!と満足しましたw

評価の高いこの作品は非クィアー的視点で色々と論じられていると思うので、このブログではそういった一般的解釈には言及しませんが、日本語では内田樹氏の男性中心主義の終焉が秀逸なので是非、参照して頂きたい。

さて、私のゲイダーが鳴り響いたのは、まず映画が全体的に男性嫌悪的だからである。といっても、原作は分からないが、監督が男性なこともあってか、どうやら完全に意図的に提起されたと思われるが。そして、そもそも男性がほぼ映画に出てこず、唯一出てくる男性(レニー・クラヴィッツ!)は看護士というジェンダーベンディングな役どころで、なんと言っても、この映画の良心の要である教師がレズビアンという設定である。また、主人公のフリースクールのクラスメートの中にも作品中には言及されていないが、レズビアンっぽい格好をしていたりするし、だいたい性的暴力というトピックも昔からレズビアンと繋がりが深い。

そのレズビアンの教師であるが、非常に知的で慈悲深く書かれているのため、初め鑑賞していた時、こんなフリースクールに有能な教師がいるという設定はストーリー性を考えれば特に楽観的すぎると思った。しかし、主人公が教師の家に泊まり、彼女がレズビアンであると明かされる。さすがにこの時は、にやっとしてしまった。にやっとしたのは、レズビアンが登場したからではなく、なぜこんな有能な教師があのフリースクールで教えているのかの答えをこの映画がちゃんと用意していたその周到さに、参りました!と思ったからである。

世の中には色んなマイノリティグループがあるが、セクシャルマイノリティには特殊性がある。人種的、民族的、宗教的等のマイノリティは家系に連なるものに対して、完全な科学的解明は待たれるものの、セクシャルマイノリティはどの人種にもどの家庭にも産まれ得るはずだからである。ロイヤルファミリーにも、辺鄙な閉鎖的な村にもである。このことは、周囲に理解されずに悲劇的な結果も産むが、同時に、違う視点で物事を見れたり、社会的立場を超えて寛容になれたりするきっかけも産む。だから、有能な教師がフリースクールで教えている事の説明として、個人的には説得力があると思った。

おそらく教師のモデルは原作のサファイア自身で、女性監督のような切り口の男性監督も含め、改めてクィアーな視点の可能性の大きさを感じた作品であった。

余談であるが、ソーシャルワーカー役でマライア・キャリーが出演している。意外(?)にもハマリ役で僭越ながら見直しましたw




四角い恋愛関係 [DVD]/パイパー・ペラーボ,レナ・ヘディ,マシュー・グード


原題はImagine Me and Youなんですが、はじめまさかこんな映画に邦題がついてるなんてびっくりしました。というのも、日本でこの映画が商業的に成功すると思って買い付ける人がいると思わなかったからw調べてみたら、dvd発売だけで、劇場はさすがに未公開だそうで、まぁそれならありえるかなと勝手に納得しました。邦題もパッケージも笑えるのですが、マーケティングでこうなったんでしょうね。レズビアン以外にも、ゆるいラブコメを求める人にも買ってもらおうと、ME&YOUから一人ならともかく、ほとんど関係ない男性キャストを巻き込んで、四角関係とたんだと思いますが、ストーリーは、結婚式当日に花嫁とレズビアンの花屋が一目惚れ的出会いをして、、、というお話です。

2005年のイギリスの作品で、Imagine Me and Youがお気に入りというのが英語圏のレズビアンのステレオタイプとして扱われるような作品です。内容はもうそれはそれはゆるーいハッピーエンドなラブコメなので、まぁどうでもいいというかw、細かい事に目くじら立てることもないのですが、多分そこがこの作品の売りなんだと思います。ゲイなりビアンがテーマの作品は、誰か死んだり、社会の無理解に打ちひしがる”悲劇系”のパターンか、政治的メーッセージが全面的に出た”啓蒙系”、サブカルチャーとしてのLGBTコミュニティーというスタンスの”内輪ネタ系”というパターン、あるいはその全部だと思うんですが、やっぱりこういうのに疲れてきた人もいるんだろうな、と思います。同性愛を取り巻く環境は、地域ごとにものすごく差があるので、同性愛行為が死刑という国もあるとはいえ、特に若い世代では、いったんカムアウトしてしまえば、もうストレスを感じる事なく淡々としている地域も実際に存在します。この映画の世界観もそんな感じで、従来のラブコメの一人を女性に変えただけという感じで、夫も女性に走る妻に過激に怒ることもなく、両親もたいしてあわてふためくわけでもなくすぐに応援に周ります。女性に恋をした主人公だって、結婚しているため躊躇はあるものの、セクシャリティに悩むって程ではないし、背景にもビアンコミュニティなどの特殊な環境設定もありません。つまりこういう映画に需要が出てくる程、変化している現状を喜んで、頭を空っぽにして楽しむ作品です。

もちろんビアン人気があるのは、ゆるいからだけでなく、女性同士の恋愛が主体の映画としては、(おそらく)予算も高い方なので、役者もレズビアンアイコンのパイパー・ペラーボで、相手役のレナ・ヘディも含めて、この手のロマンティックコメディを演じるに十分なルックスを備えているからだと思います。少なくとも「ホットチョコレート」の女優よりは断然良いと思いますw パイパー・ペラーボは一般には「コヨーテアグリー」で知られていると思いますが、レズビアン的(?)には「翼をください」の悲劇のヒロイン役でアイコンとなりました。ま、”レズビアンアイコン”も増えすぎたので、自重しないといけませんがw 私は観た事ないのですが、レナ・ヘディもを過去に「ダロウェイ夫人」に出演して、女性とのキスシーンを演じているそうで、ビアン映画マニア?なら知っているかもしれません。余談ですが、ダロウェイ夫人が「めぐりあう時間たち」でヴァージニア・ウルフが書いている小説で、三つのストーリーを繋ぐ重要なキーワードでした。さらに余談ですが、花婿役のマシュー・グードは「シングルマン」の主人公の亡き恋人役でした。

不確かな情報しか得られなかったのですが、恐らくこの映画、予算回収できてないと思うので、しばらくはこういう映画作られないかもしれませんねwそういう意味で貴重かもしれません。

字幕無し
*日本語字幕ダウンロード
めぐりあう時間たち [DVD]/ニコール・キッドマン,ジュリアン・ムーア,メリル・ストリープ


「めぐりあう時間たち」は2002年の映画だが、ほぼオンタイムで見たと思う。最近になって数回見直す機会があって、セクシャリティが一つの大きなテーマであることに今更ながら気づかされた。初めて見た時は、とりあえず知的な映画であること、そして女優たちの演技が魅力的であること、死がテーマであること、そんなことただぼやっと感じて、余韻はだけが長く残る映画であったな、いうぐらいしか記憶にない。今、改めて観て、高校の英語の授業で、一番伝えたいことは書かずに伝えることが基本中の基本だと教わったのを思い出した。観る人を選ぶ映画だと思うし、伝えたいメッセージもそんなに普遍的に誰にとっても重要なものでもないかもしれない。でも個人的には以下の点において本作品は間違いなく秀作だと思った。

性と死なんていうとフロイト的だなと思うけど、突き詰めると表裏一体で同時に扱わざるを得なくなるのかも知れない。この映画も前回紹介したウーマンラブウーマンと構造は似ていて、時代背景がそれぞれ異なる女性三人の(ほぼ)ある一日の物語である。三人の物語上の関係性はネタバレになってしまうので言及はしないが、設定上の共通点はセクシャリティの機微をそれぞれのレベルで内包していることだ。1923年のヴァージニア・ウルフ、1951年のローラ・ブラウン、2001年のクラリッサ・ヴォーン彼女たちはそれぞれ献身的なパートナーがいるが満たされない生活を送っている。近年において、ヴァージニア・ウルフの作品の解釈はフェミニズムだとかレズビアンだとかがテーマになってるらしい。専門家の間で、ヴァージニア・ウルフ自体のセクシュアリティがどう捉えられているのかは分からないが、本来は今の人間がどう探ろうとしても分かるものでもないだろう。そして恐らく一番重要なことは、セクシャリティは本人だって分からないだろうと言うこと。セクシャリティが全くベースレスな概念だとは思わないが、時代背景が変わると捉えられ方も変わり、本人の捉え方も変わる。51年のローラ・ブラウンの描写はもう少し踏み込んでて、近所の女性に惹かれているようにみえる。といっても、夫と子供がいる生活への違和感以上の認識があるかは分からない。一方、2001年のクラリッサは女性の長いパートナーがいて、精子バンクで産んだ子供がいる典型的なレズビアン的生活を営んでいるにも関わらず、本編を通して、元恋人でゲイのリチャードのことばかりである。

それぞれの時代で女性同士のキスシーンが含まれるが、ヴァージニアと姉のキスは精神を病んだ上での突発的行動と認識され、ローラと隣人のキスは、まるでなかったかのような扱いを受ける。そしてクラリッサとパートナーのそれは明らかなキスであるものの、クラリッサが本当に望んだ相手とのもであるかは分からない。このキスへの認識は基本的にそれぞれの時代のレズビアンへの認識と重なるものがある、というかそれを狙ったものだと思う。

セクシュアリティは多様だとするのが”ポリティカリー・コレクト"な発言だとして、それを先回るような形で、そもそもセクシュアリティなどという概念は人間にとって本質的なものではなく社会的な創造物だ、としているのがこの作品かなと。あらゆる感情に名前があるわけでもなく、社会生活の中に落としどころがあるわけでもない。

余談だが、この映画は多くの人にとって、「ニコール・キッドマンの付け鼻の映画」として覚えられているだろうが、ジュリアン・ムーアがとにかくいい!なんか昔、ジュリアン・ムーアがレズビアン監督と対談するとかいうどういういきさつなのか分からない、というか覚えてない映像をみたことあるけど、「キッズ・オールライト」「シングルマン」「 Chloe」とLGBT関係に立て続けに出演してて、すっかりLGBTアイコンになりましたね。この前のゴールデングローブがあまりにもゲイゲイしかったので、今やゲイ役なんて当たり前って思ってきたりするけど、やっぱり役者それぞれキャリアチョイスって出るんですよね。