高校はバージニア州にある小さな教会学校を通った。
教会学校と言っても、聖書の授業と週一度のチャペル礼拝、そして進化論ではなく創造論を教える事以外、普通の私立学校とはそんなに違わなかった。

チャペル礼拝は普通学校近くにある大きなパブリック礼拝堂で全校生徒を集めて行うが、二ヶ月に一度ぐらいグループチャペルに変更する事もあった。
グループチャペルでは一人の先生が10人程度の学生を率いて聖書と関わるトピックをテーマにし、自主的な議論を広げる。

高校何年で時だろう、久しぶりのグループチャペルで、先生はこのような質問を私達にした。

"If you have to choose between not able to see or not able to hear, what would you choose?"
「『目が見えない』と『耳が聞こえない』のどちらを選ばなければならない場合、どっちを選びますか。」

聖書のどの書のどの物語と関係しているのかはもう忘れたが、
この質問とみんなの答えを忘れたことはなかった。

グループにいた女の子たちは全員(答えを言わなかった無口な二三名を除く)「耳が聞こえない」を選んだ。原因は
「見るの好きだから」

「愛しい人の顔も見えないのが悲しい」
「ドラマや映画が見えないのがあんまりだ」
「目で色とか形とか、もっと色々なものを経験できるから」
……

もちろんどれにも同感できるが、
私は躊躇もせず「目が見えない」方を選んだ。
流れと真逆の答えに少し驚いたのか、教室の中で一瞬の沈黙を感じた。
でも先生はすぐにそれを破り、「どうして?」と聞いた。

"If I can only see but not hear, whenever I see someone talks, I must feel like I'm missing something, because I can see the mouth move but nothing is happening in my ear. But if I can only hear but not see, the voices will be like light flickering in the darkness. Although my vision is black, at least I have the voices."
「もし目が見えて耳が聞こえないなら、目の前で誰かが話している時、絶対「何か」が欠落していると思うようになります。だって口が動いているのを見ているのに、耳に何も入ってこないですから。でももし目が見えなくて耳だけが聞こえるなら、その声は暗闇に踊る光のようになります。視界が真っ暗でも、せめて声たちがそばにいます」

この答えがあまりにもキザだったのか暗かったのか、女の子みんな難しい顔をした。
私は彼女らの顔を見て、つい吹き出してしまった。
そしたら優しい笑顔を浮かべていた先生も笑顔を一瞬崩した。
私から見るとこれ以上面白いことはなかった。

別に大したことを言ったわけでもないし、難しい言葉を使ったわけでもない。
でもこんな反応も正直予想通りだった。
自分にもどこかの小賢しい文芸誌の一段を復唱しているように聞こえたが、
正直な気持ちだった。

「だった」じゃない。今でもそうだ。

初めてパソコンを貰った時から、私の夜は静かじゃなかった。
パソコンで何かを流さないと眠れない習慣は十何年前からもう身についていて、未だに変える気さらさらない。
眠りにつく時に流れる音は聞き慣れた音楽じゃ駄目だ。決まった旋律を聞いても落ち着かない。
だからいつもイベント映像や一度しか見てないドラマ、もしくは『コナン』を流している。
人が会話しているのを聞こえて落ち着く。声を聞くと眠りにつく。

最近また声の大事さを思い出した。
コロナウィルスの感染拡大で日常をオンラインに移した日々、
ビデオでミーティングや討論をする時、他の人が自分の声を聞こえているか否かを常に心配していた。
一つの空間にいないから、音波が届いているかどうかすらわからないのが怖かった。

そして今日、発表真っ最中のメンバーの声が急に聞こえなくなった。
ただのネットワークの不安定だったが、声が途切れた後の10秒間、沈黙に突入した気まずさより、声の消失が恐ろしかった。
発表と関係なく、ただ声が聞こえなくなるのが不安で仕方なかった。

不安になったから、ミーティングを終わった後から今に至って、また『コナン』を流し始めた。
炊飯器がさっきチンと鳴った。
足元にあるヒーターも熱とともに穏やかの呼吸音を繰り返していた。
でもやっぱり少し足りないみたいで、父と少し電話をした。
父のそばに母もいたので、母とも少し話した。
そしてやっと落ち着きを取り戻した。