今春、いわゆる「森友学園問題」が世の中の関心を集めたけれども、政治的にも行政手続き的にも、それほど大騒ぎするほどではない事柄をめぐって、スキャンダリズムの嵐が吹き荒れた。
それ自体、日本社会で何十年にもわたって繰り返されてきたいつもの姿であるが、それ以上にこの騒動をつうじて如実に示されたのは、まるで憂国の士であるかのように愛国教育の必要性などを声高に叫んできた人たちも、いかに粗雑な振る舞いや乱暴な言葉遣いをしているのかということである。
「反左翼」がある種の流行になるなか、いわゆる「ネトウヨ」をはじめとして、そうした軽薄な言動が世間に広がっていたのだが、今や、「保守政治家」と呼ばれる人たちやその周辺までもが、ほとんど「ネトウヨ」と大して変わらない状況になってしまっているのだ。
この四半世紀の間で、愛国心が重視されるようになったのは、それまでの「自虐的」ともいわれる歴史観を見直すうえでも、当たり前のことであった。
しかし、彼らの多くは往々にして、日本という国がいかに素晴らしいかということばかりを強調する。
そのなかにはもっともな内容も含まれてはいるものの、愛国心は、決して日本が素晴らしい国だということのみを根拠にするものではないはずだ。逆にいえば、日本社会がまさに眼前に広がるような醜状を示しているからといって、国を愛する必要がないということにはならない。
しかし、愛国心に耽溺しようとする底浅さゆえに、森友学園の幼稚園における教育勅語暗唱に見られるように、紋切り型の反応や形式主義に凝り固まった言動が広がり、「自尊的」になるあまり、中国や韓国に対して、ひたすら侮蔑的な発言を繰り返すことで悦に入ることにもなる。
元来、愛国心とは、人間にとってどうしても致し方なくつきまとうものだ。
当然のことながら、日本には、素晴らしいこともあれば、そうではないこともある。そうした社会や歴史の矛盾を引き受けながら、国を愛さないでいようと思っても愛さざるを得ない、国を愛しているがゆえにこそ愛せないこともあるといった葛藤を抱えたものであるはずだ。
愛国心から簡単に自由になることもできなければ、軽々しくのめりこめるものでもない。自虐への単なる反動として自尊が叫ばれても、バランスを逸したものにならざるを得ない。
『表現者 平成29年9月号』 村上正泰
