橋本龍太郎(7) | 保守と日傘と夏みかん

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政治・経済・保守・反民主主義

 

 

今日の日本の経済成長の鍵は、「公共投資の拡大」の有無にかかっている。

何度も引用するが、図1に示したように、異様な挙動を示す内閣府モデルを除けば、公共投資を拡大すればGDPが拡大していくのは理論的実証的に考えて明白なのである。

 

その論理的な背景は、次のようなメカニズムだ。

そもそも91年以降、日本は供給よりも需要が小さいデフレ経済下にある。そんな状況下では、物価が下がり、失業者が増え、国民所得が下がり、そして、需要がさらに縮小する。
そうしてさらに、需要と供給のギャップが広がり、物価が下がり、失業者が増え、国民所得が減り、さらにさらに需要が縮小していく。そしてそれによってさらに物価は下がり―というこうしたスパイラルによって、経済がどんどん低迷していくのが、デフレという現象だ。

このようなときに、政府によって公共投資を拡大させれば、かつ適切な金融緩和を行えば(適切な金融緩和が不在であれば、「クラウディングアウト」と呼ばれる金融市場における民業圧迫が生じてしまい、効果的な需要の拡大が望めなくなる点は留意が必要だ)、過小な需要を補強し、需要と供給のバランスを回復させることができる。
その結果、物価の低迷から抜け出すことが可能となり、デフレという病を治癒させることができるのである。

つまり、デフレ下で公共投資を縮小させるなどという政策方針は、デフレを悪化させる「自殺行為」に等しいのである。

 

さらには実証分析の点から言っても、91年以降、中央政府の公共投資を削減すればするほど、日本のGDPは縮小してきたことが示されている。先に引用した筆者の実証分析に基づくなら、1兆円の中央政府の公共投資の削減が、5兆円の名目GDPの縮小に結びついてきたことが示されている。
(中略)
それではここで、「橋本・江田改革」における省庁再編を改めて振り返ってみることとしよう。

橋本内閣は、宮沢内閣が倒れて以降、1993年から1996年にかけて生まれた細川内閣、羽田内閣、村山内閣という非自民系を含めた「短命政権」の時代を経て、ようやく誕生した本格的自民系政権である。橋本氏はリクルート事件にはじまる政治不信、大蔵官僚等による金融関係の様々なスキャンダルに端を発する行政不信といった世論に推される形で、大胆な「行政改革」を進めていった。

それと共に、橋本内閣に大きな影響力を保持していた竹下登元首相は、竹下内閣崩壊とその後の細川内閣、羽田内閣の存続に協力した霞が関の一部勢力に対して徹底的な報復を図らんとした―ともしばしばいわれる時代である。

こうした背景の下、橋本氏は、「橋本内閣の森蘭丸」などと一部で呼ばれた首相秘書官・江田憲司氏と共に徹底的な行政改革を断行していった。かつては1府22省庁あった省庁は、1府12省庁とおおよそ半分にまで縮小、再編されていった。

このとき、法務省、外務省、農林水産省、通産省、そして大蔵省といった各省庁は、一部名称が変えられる等の変更はあったものの、再編後もその勢力が一定程度温存されることとなった。しかし一方では徹底的に「弱体化」されてしまった省庁もあったのだ。

その代表的省庁が、建設省、運輸省、国土庁、経済企画庁という、国土計画や経済成長といった日本全体のマクロな政策に深く関わる、いわば「経済成長派」と言うべき四つの省庁だったのである。

建設省は道路や都市計画などの整備、運輸省は港や空港の整備等の「公共投資」を所管する省である。一方で、宍戸氏が審議官を勤めた経済企画庁は経済成長戦略を所管し、下河辺氏が次官を務めた国土庁は国土計画を所管していた。

つまりこれらの四つの省庁は、経済政策、国土政策とそのプランニングを立案すると共に、そのプランニングに基づいて具体的に公共投資を図り、それを通して日本の経済成長を先導し続けたわけである。

省庁再編以前はこれら四つの省庁はそれぞれ独立に存在し、それぞれに大臣ないしは長官が配置されていた。つまりかつては内閣の中に、経済成長を進めんとする閣僚クラスが四人も存在していたわけである。

そして、この四人の大臣クラスに代表される勢力と対抗していたのが、「最強官庁」との呼び声も高い「大蔵省」であった。
いわば、かつては四人の大臣と四つの省庁による連合軍と、スーパー官庁・大蔵省との財政を巡る、成長派と緊縮派の相克の中で進められたのが、国土計画とそれに基づく公共投資だったのである。

ところが、省庁再編によって、そのバランスは決定的に崩れてしまう。

まず建設省と運輸省が統合されて国土交通省になる。そこに国土庁も組み入れられる。そして、国土庁が所管していた仕事は国土交通省の中の「国土計画局」というたった一つの「局」に移管された。
このことは、かつて内閣の中に厳然と存在していた国土庁長官という閣僚ポジションが消滅したことを意味している。
さらに、建設省と運輸省の統合はかつては建設大臣と運輸大臣という二つの閣僚ポストがたった「一つ」になってしまうことを意味する。
そしてさらには、経済企画庁は、総理府に吸収される格好で「内閣府」に統合される。そして経済企画庁長官という閣僚ポストが消滅してしまったのである。

その一方で、大蔵省が被った影響は、建設・運輸・国土・経済企画の省庁が被った影響に比べれば、圧倒的に小さいものに留まった。
もちろん、名前を変えさせられ、日本銀行の独立性が高められ金融部門が独立していく等の影響を被ったものの、これら四省庁が被った影響とは比ぶべくもないものだ。

その結果、「経済成長派」と「緊縮財政派」のバランスが完全に崩れてしまう。たった一人の大蔵大臣に対して四人の閣僚の連合でようやく保っていたバランスを、たった一人の国土交通大臣で維持し続けることなど不可能だ。

なお、補足的に明言しておきたいが、筆者は「緊縮財政派が悪」で「経済成長派が善」などとは微塵も考えてはいない。過剰な緊縮財政は国益を損ねるのと同様、過剰な積極財政もまた国益を損ねることは当たり前だ。
もしも善や悪があるとするなら、両者の間の「適正なバランス」こそが「善」なのであって、一方が過剰な状況はいずれが過剰であるかにかかわらず「悪」だ。

その意味において、その適正なバランスを「緊縮財政」を過剰に重視する方向に振れさせた橋本・江田改革は、「善」というよりもむしろ「悪」と言わざるを得ぬものだったのである。

それは第一に、その行政改革によって、デフレ脱却のために求められる必要な公共投資を保持することが困難になったからである。
そして第二に、国土庁の解体によって将来の国家のビジョンを見据えながら、なすべき合理的で適切な公共投資とは何かを考えることそれ自体が困難となったからである―これこそ、下河辺氏が、「まずい」と仰った感覚なのである。





『維新・改革の正体』 藤井聡