NPTは明々白々の不平等条約 | 保守と日傘と夏みかん

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年がら年中「平等」を叫んでいるにもかかわらず、今の日本人は、NPT(核不拡散条約)についてだけは異議を唱えない。

旧連合国にイスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮を加えて九か国、それだけが核武装して軍事強国としての威圧を周辺諸国に与えているというのに、それを不平等条約と詰らないのはなぜか。

核廃絶の理想がいつの日か実現されるはずだと夢想して、すべての国家が非核で平等となると立論しているからだ。

だが、これは莫迦者の屁理屈で、立論の名に値しない。
なぜなら、知識の発達はイリヴァーシブル(不可逆)であり、したがって、核兵器が世界中で廃絶されたあかつきに、「俺は原爆も核弾頭もミサイルも作ったぜ」という国が現れたら、世界中がその国の前にひれ伏さなければならなくなるからだ。
そうなるのを防ぐには、七十億の人間すべてに記憶喪失の注射を打つというようなことをしなければならない。

そもそもNPTが締結されたとき、「既核保有国は核軍縮を推し進めるべし」という条件がついていた。
しかしそんな条件はとうに反故と化している。

たとえば、殊勝げに広島を慰霊訪問してみせたアメリカのオバマ大統領は、その在任期間中に核関連費用を30%も増やしている。
中国がもっと大規模に核支出をやっていることについては、わざわざ指摘するまでもない。
要するにNPTはすでにズタズタのボロ条約だということである。

その条約の第十条に「その国の周辺事情によっては脱退可能」と記されている。
我が国についていえば、今がその「周辺事情の悪化したとき」でないとしたらいつがそのときなのか、見当もつかない。

アメリカ、ロシア、中国、北朝鮮という核武装諸国に囲まれて、安らかに昼寝を楽しんでいるのは、率直にいえば「見たくないものには目を瞑っている」だけのことであろう。

そういえば我が国がNPTを批准するとき、「日米安保が存続している限り」という政府声明が出されていた。
いわゆる「アメリカの核の傘」というやつで、いざとなったらアメリカが(核兵器で)助けてくれる、とわれらジャップは見込んでいたのである。

だが、そんなものはとうに「破れ傘」なのであって、日本に核が打ち込まれたからといって、アメリカが日本のためにみずからを危険にさらしてくれるのは、日本がアメリカの五十一番めの州になった場合に限られる。

だが、一億余もの黄色人種がいる州など、大統領選などのことを考えると、アメリカにとって大迷惑で、日本に可能なのは(プエルトリコのような)「投票権のない保護領」つまりテリトリー(准州)になることだけだ。

また、「核は使えない兵器だ」とみなして自己慰安に励むなら、既核保有の九か国はみんな馬鹿だと証明するほかない。

反核日本人よ、ハンカクサイ(東北弁でアホ)国民であることをやめて、「核の威圧」への感受性を少しは持ちなさいよ。

今世界の到る処で起こっている戦争には、既核保有国の策謀が露骨にかかわっている。
例の安保法制改定なんかも、我が国がアメリカの駒としてどう使われるかにかんする方策にすぎない。こうした現実は「核の威嚇力」を露骨に示している。

「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は「不徳義を無視せよ」ということだが、不徳のきわみたる核については瞠目するのほかはない。





『表現者 平成29年1月号』 鳥兜‐巻頭コラム