念力を身につけることを主たる目的とした本を、小学生の時に購入した。
ボクらが子どもの頃。
念力をつけることは、ちょっとしたトレンドだった。
先割れスプーンをちょいちょいとこすると、それはグニャって曲がった。
トランプのような紙の裏に、星や波の絵が描いてあって、それらを見ないであてることができた。そういう能力を持っている人を、エスパーと呼んだ。
エスパーは、テレポーテーションもできた。瞬時に違う場所にドバッと豪華に移動できる。
テレパシーも充実していて、離れた人と心の中で会話ができた。


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ボクはエスパーになろうと思っていた。
将来は、立派なエスパーになりたい。そう、思っていた。だから・・・。
念力入門の本を買った。
ボクはその本を読んで、あらゆる念力の練習をした。
サイコロで、1の目だけを出すように念じながら何度も何度も投げ続けたり、走りながら彼の地を連想し、そこにエレガントに移動できる能力を身につけたりするために、練習に精励した。
でも・・・、ダメだった。
サイコロは、6分の1の確率でしか1を出してくれなかったし。
念じても念じても、テレポーテーションはできず、ただ単に走り周って終わった。
結局それは、才能だったのかもしれない。ボクは、エスパーになるべく才能を身につけていなかったのだ。残念。
予知能力を身につけて、テストで満点を取ろうとか。
鉛筆や消しゴムを念力で持ち上げて、遊ぼうとか。
それらは全て夢に終わった。
超能力。それは結局、科学という理性の前に押しつぶされた。

当時念力を使ってテレビに出演し、一躍大スターになった人たちも、結局それって手品なんでしょ。ってことで最後は片付けられた。
でも。そうなんだけど、科学という理性で全てを片付けようっていう考え方に。
本当にそれでいいの??って、目を持ち続けた方がいいなと大人になって思うようになった。
科学という名の理性を批判する。それは、思索の世界では未だに健在だ。
だって、科学の世界で10000回実験をして正しい結果が出たとしても、10001回目は違う結論が出るかもしれない。そんな懐疑的な考え方も、一方で残したい。ボクは今でもそう思っている。
だから、お雛様は年に一度は外に出してあげないと、かわいそうって思うし。
使い終わったお守りを、コンビニのゴミ箱に捨てることもできない。なんか、バチが当たっちゃいそうで・・・・。それは全くもって科学的じゃないけど。
そう考えるオヤジは、まだまだ日本にたくさん存在するような気がスル。