<吉良家忠臣蔵>

 

今盛岡はしんしんと雪が降っています。

このまま降り続ければ、

けっこう積もりそうです。

 

そんな12月14日ですが、

12月14日と言えば、

赤穂浪士討ち入りの日です。

こんなことを思い出すのは、

昭和世代ならではですね(~_~;)

 

今回はいつもと違って、

吉良側に立った忠臣蔵を

述べてみたいと思います。

 

 

時は元禄14年(1701年)

3月14日江戸城松之大廊下において、

赤穂藩主浅野内匠頭に、

徳川家高家筆頭吉良上野介が

切り付けられるという

大事件が起こりました。

 

 

この事件に激怒した5代将軍綱吉は、

即日浅野内匠頭に切腹を申し渡し、

吉良上野介はお咎め無しとしました。

そして赤穂浅野家はお取り潰しとなりました。

なぜこの刃傷沙汰が起きたのか、

いまだに原因が分かっていません。

 

事件後の取り調べで内匠頭は、

「遺恨がありましたので」

としか言っていません。

また吉良上野介は、

「全く身に覚えがありません」

としか言っていません。

芝居や映画、ドラマ、書籍などで

語られている原因はすべて推測です。

 

そこで私のブログも推測で、

事件の原因は、

浅野内匠頭の乱心

と言うことにします。

 

浅野内匠頭は、

癇癪持ちで、人に頭を下げることを嫌がった、

と言われています。

勅使供応役という大役を仰せつかり、

そのお役のプレッシャーで、

精神的に追い詰められていたと思います。

この時の指導役の吉良とも

折り合いが悪かったのかもしれません。

そんなこんなで

内匠頭が一方的に爆発した気がします。

 

そしてこの事件の一年後、

元禄15年12月14日、

赤穂浪士47名(46名とも言われています)が、

本所松坂町の吉良邸を襲撃しました。

時刻は明け方4時ごろです。

 

突然の浪士たちの襲撃は、

吉良方には寝耳に水だったようです。

 

吉良方の家臣は、みな寝巻のまま、

訳も分からないままに

斬り合いになったと思われます。

一方赤穂浪士は

 

兜、鎖帷子などの装束で、

完全武装でした。

そして、斬り合いの時は

 

必ず3人一組でかかるように

決めていました。

 

これに対し吉良家の方は、

家臣、付き人など、100人ほどいましたが、

実際浪士たちと斬り合ったのはその半分ほどでした。

もっと正確に言えば、

積極的に斬り合ったのはさらに少数で、

多くは出会い頭になすすべもなく斬られたようです。

外に出ることが出来なかった?吉良家の家臣たちは、

「浪士たちが大工道具なども持参してきて、

我々が出れないように雨戸などに細工されて、

出ることが出来なかった」と言ったそうです。

 

でもその気になれば、

雨戸を蹴破ってでも外には出れたはずで、

実際には、

 

部屋でおびえていたと思われ、

さらに刀を投げ捨てて、

屋敷の外に逃げ出した者もいました。

 

斬り合いもかなり悲惨な状況で、

ほぼ一方的な虐殺と言ってもいいような感じでした。

 

倒れた相手に数人の浪士が、

寄ってたかって斬りつけて、

元は誰だったのか判別できないほど

斬り刻まれていた死体もあったそうです。

また、浪士たちに吉良上野介の居場所を聞かれ、

知らないと言っただけで首を斬られた家臣もいました。

 

元禄時代と言えば、

武士も平和にどっぷりつかっていた時で、

実際に斬り合いなどしたことも無く、

赤穂浪士の中でも人を斬ったことがあるのは、

堀部安兵衛だけでした。

 

浪士たちはこの斬り合いで、

かなりハイになっていて、

興奮状態にあったと思われます。

 

そんな一方的な戦いの中で、

奮戦した吉良方の家臣に、

山吉新八という家臣がいました。

 

斬り合いの中、怪我をしながらも、

屋敷を抜け出し、

上杉家に助けを求めに行きました。

この時の上杉家の藩主は、

吉良上野介の実子で、

上杉家の養子になっていました。

 

山吉新八は、助けを求めた後、

上杉家の制止も聞かず、吉良屋敷に戻り、

再び赤穂浪士と斬り合いをしました。

しかし何か所も深手を負い、

力尽きて倒れてしまいました。

幸い一命をとりとめて、

その後は、やはり生き残った上野介の息子に、

最後まで仕えたと言います。

気持ち的には、

この新八が一番の忠義の士のような気がします。

 

吉良上野介は結果的に首をとられるわけですが、

哀れに殺されたわけではなく、

最後まで刀をとって戦ったという証言もあります。

 

吉良上野介の名誉のために、

勇敢に戦っている絵にしました。

 

上野介は世間の評判とは真逆の人で、

領地では、領民思いの名君として

伝わっています。

 

堤防を整備して水害を防いだり、

新田開発を積極的に行い、

豊かな領地を目指していました。

そして子煩悩な優しい人でもあったようです。

 

最後は上野介の子、義周(よしちか)です。

養子ではありますが、

赤穂浪士襲撃の折は、

自ら長刀を振るって奮戦しましたが、

十数か所に傷を負い、倒れました。

命はとりとめましたが、

のちに幕府から、

赤穂浪士の襲撃から、

家と父上野介をを守ることが出来なかったとして、

吉良家を取り潰され、

自らは罪人として、諏訪に流罪となりました。

この時19歳でした。

 

傷心の義周に付き添ったのは、

山吉新八など2名だけでした。

その後義周の気は晴れることなく、

鬱々としたまま、21歳で病死しました。

ここに徳川家康以来の名家の吉良家は終わりました。

 

最終的な死傷者の数は、

吉良家は、死者23名、負傷者16名。

赤穂浪士は負傷者数名でした。

 

 

たまには吉良側から見た忠臣蔵も面白いですね。

ちょっと長くなってしまいました。

お隣さんの話はまたの機会にします。

 

今日もおつきあい頂き有難うございました。