1868年1月19日に、大久保が大阪遷都を提議したことがあった。
鳥羽官幕戦争のすぐ後のことである。
これは早すぎると思われるかもしれない。
理由としては、京都が長州反抗戦で焼かれ、荒れていたことが考えられた。
王政復古の宣言で、摂政関白の制度が廃止され、公家全体が既得権を失った。
それにより、京都の公家が不満を持ち、その反感が新政府に向けられることを恐れたのが、主な理由であった。
新政府の新しい政策の実行に対し、旧公家たちの妨害があると、新政府としては不都合が生じる。
大久保が遷都を提案した理由は、それであった。
公家トップ一家は、新政府にとって必要であった。
勤王の志士たちは、それを「玉」と呼んだ。
それは「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」の意味の玉であった。
だから玉と公家を切り離すことが、遷都の目的であった。
『氷川清和』に、海舟の言葉が書かれている。
幕府が倒れると、この人〔江戸の町人〕たちに、新たな職業を与えなければならないのだが、何しろ百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは、容易に得られない。
それで、おれは、この事情を詳しく大久保に話したら、さすがは大久保だ。
それでは断然、遷都のことに決しようと言った。
すなわち、これが東京今日の繁栄の元だ。
江戸開城のあと新政府が東京遷都を提案すると、京都の公家や町人が反対した。
1868年10月に江戸城を皇居とし、東京城と名付けた。
これで西京と東京ができたことになる。
まず東京城行幸を行って、天皇は一旦京都に帰った。
1869年3月に再度、東京へ行幸した。
そして、そのまま帰京しなかった。
この時が史実上、遷都ということになった。
明治維新について、その中の戦争の勝ち負けだけを取り上げるのではなく、歴史では事件を動かす人物の考えが重要である。
明治維新では討幕後の、廃藩置県が重要であった。
後者がなければ、社会の中身は変化しなかった。
廃藩置県〔1871年8月29日 14時 皇居〕
1868年に江戸が開城した後の閏4月21日に、新政府の仕事が終わったとして、政府の役職を辞した者が続出した。
長州藩主・毛利元徳(もとのり)と木戸孝允、島津藩主・忠義、小松帯刀、大久保利通、後藤象二郎、岩倉具視たちであった。
その廃藩置県の前に必要な版籍奉還こそが、最大の困難な仕事であった。
岩倉は政府の役職を退き、関係がない振りをして、まず薩長の藩主が版籍奉還の模範を示すよう求めた。
両藩の代表は、こわがって賛成しなかった。
それで岩倉は姫路藩に、先鞭を振るうよう頼んだ。
1868年11月に、姫路藩主が版籍奉還を申請した。
それを知り、大名たちは驚いた。
内心で恐れていたものが、現実化した。
当時は将軍職だけを失して維新をストップさせようと、考える大名が多かった。
版籍奉還というのは、地方の権力者である大名が力を奪われ、無職になることを意味した。
大名は怒りを上層家臣たちに表したし、上級武士も一緒になって、新政府の要人を暗殺しようとの動きが始まった。
版籍奉還は戦争に劣らず、命が狙われる危ない仕事であった。
大久保は「版籍奉還は形式だけだ。天皇が認めなければ実現とはならない」と言って、若い藩主から承認を受けた。
広沢真臣は自分は政府の役職を望んでいる訳ではない、と言って長州藩主に版籍を奉還させた。
土佐藩主は将来も続けて、政府の要職に就く約束で、承認した。
1869年1月に薩長土肥の4藩主の版籍奉還が発表された。
毛利元徳〔山口知藩事〕
3月には、公議所が開かれた。
これは日本の、先の衆議院に次ぐ議会制度であった。
各藩から、代表が参加した。
4月に府藩県に、私兵編成を禁止した。
また府藩県への租税の上申を命じた。
つまり、各藩主の実権が骨抜きになった。
6月には版籍奉還した藩主が、藩知事に任命された。
公卿や諸侯は華族と改称された。
続々と諸侯の版籍奉還がおこなわれた。
藩の借財は新政府が払うことになったことも、版籍奉還を促進させた。
7月に、2官6省の官制になり、待詔院(たいしょういん)や集議院がもうけられ、華族が議員の資格を持つことになった。
明治維新に功績があった者が、華族に追加された。
12月には、士族と卒の称が決められ、以前の上級武士の世録は8分の1支給となった。
長州藩では、東北反乱鎮圧に参戦した兵士が帰郷し、失業した者がいた。
1870年1月には、奇兵隊を始め諸隊が反乱し、山口藩庁を包囲した。
この頃、各藩では士卒の禄が2割増となった。
さぼ