5月7日に官軍艦隊は、函館湾の賊軍艦隊を攻撃した。
12日に東海岸の乙部に上陸した官軍は、山を越えて函館の町の攻撃を始めた。
五稜郭城では、榎本らが降伏について話し合った。
降伏の嫌いな賊軍の陸軍奉行並・土方は、少数の兵を連れて官軍に向かって進撃した。
土方は、後ろから撃たれて死んだ。
死体は城兵が埋葬した、という。
官軍が15日に弁天砲台を攻めると、賊軍250人が降伏した。
弁天砲台跡〔函館市〕
16日には、榎本をはじめ3,000人が降伏し、五稜郭は開城した。
西郷率いる残りの艦船軍は25日に上陸し、榎本や大鳥圭介らの捕虜を引き連れ、江戸に戻った。
新政府は榎本に死刑を求めたが、黒田参謀が減刑を嘆願したので、西郷も減刑を主張し、榎本は懲役に減刑となった。
黒田が北海道開拓次官になった時、榎本は罪を許され、開拓使の部下になった。
後者は炭坑の改良や港湾の新設をおこなった。
明治12年には、井上外相の次官となった。
黒田清隆
1868(明治元)年3月に、神仏分離令が出た。
徳川時代には仏教優遇策により、仏教優勢で神仏習合が進められた。
それにより神社には仏殿や仏塔が建てられ、すべての神社に僧侶が増え、僧侶が神社を支配していた。
だから神道を仏教と平等にするためには、神社から仏色を排除する必要があった。
それが廃仏毀釈である。
日本国は神仏習合からの廃仏毀釈によって復古したといえる。
他の神社に先駆けて仏色排除を行なっていた出雲大社では、各地の神社の招きに応じて、積極的に協力した。
官軍の富村雄は京都神祇局から頼まれて、一時官軍から離れて「廃仏毀釈」〔神改め:釈迦の教えを棄却する〕に協力した。
富家の家紋は銅矛の交差紋であり、古代出雲王国の王家を示している。
日吉権現〔日吉神社〕の「神改め」の記録には、次のように書かれている。
出雲大社の上官・富堯夫〔村雄の別名〕他40余人が日吉大社に到着し、4月2日に神改めを行った。
当時神社では仏像を御神体としていた。
武士や村人数10人も加わり、仏像を社殿から取り除いた。
本殿内の仏具もほうり出された。・・・
『諏訪市史』には記録がある。
1868年6月15日に、京都神祇局から大監察使・富堯夫〔村雄〕他4名が到着した。
徐仏の厳命があり、その日の内に諏訪大社の徐仏が行われた。
3月の社僧還俗令による僧侶の還俗が、諏訪大社に強制された。
1869年7月に、蝦夷地開拓使が設置された。
8月には、蝦夷地が北海道と改称された。
会津藩が官軍に降伏したあと、領地が87%削られた。
これは今までの藩士が暮らしていけないことを意味している。
会津藩士には、代わりに下北半島・斗南の荒地が与えられた。
しかし開拓は困難であった。
北海道の開拓を新政府が奨励したけれども、行く者は少なかった。
1870年2月には、樺太開拓使も設置された。
同じ月に士族と卒の帰農出願者に、賜金制が設けられた。
東北の反乱に、長岡藩や仙台・桑名藩などが加わった。
その罰として、長岡藩は領地が67%、仙台藩は55%、桑名藩は45%削られた。
仙台藩士は集団で、北海道開拓に面向いた。
その地には、伊達〔室蘭の北方〕の地名ができた。
出雲は富村雄が奨励したので、集団開拓が行われ函館の西北方に、八雲の地名ができた。
出雲関係者が札幌方面に多く進出したので、その郊外の手稲山の麓には、事代主命〔少彦神〕を祭る手稲神社が建てられた。
手稲神社〔札幌市〕
同年12月に、榎本がペルシャのゲルトネルに99年間菓子与えた北海道の七重村の地所を回収し、借金を返済した。
1871年8月に、樺太開拓使を北海道開拓使に合併した。
1874年6月に、屯田兵の制度が作られた。
屯田兵には、反乱藩の領地を失った元藩士が多く参加した。
これにより、北海道の開拓はめざましく発展した。
明治14年 明治天皇による『北海道巡幸屯田兵御覧』(高村真夫筆)
海舟と西郷が念願した蝦夷地開拓では、西郷は江戸開城の条件を緩め幕府の艦船を残し、海舟は榎本が函館に行くように仕向けた。
榎本は函館で良くない動きをしたけれども、結果的には彼は北海道開拓に役立っている。
榎本は後で刑が減じられ、政府の役に付けられ、北海道開拓の仕事をおこなった。
さぼ