日本全体の海軍を養成するつもりで、海舟は神戸海軍操練所を造った。

しかし1864年10月に、海舟は幕府により止めさせられ、軍艦奉行も解任された。

 

海軍で蝦夷地の国防を行う予定であったが、できなくなり海舟は残念に思っていた。

その後に官軍との和平役として、陸軍総督に任命された。

 

海軍の責任者は、榎本武揚になった。

武揚は、伊能忠敬の弟子であった幕臣・榎本武規の次男に生まれた。

昌平坂学問所で漢学を学びながら、ジョン万次郎の塾で英語を学んだ。

長崎伝習所で学び、築地海軍操練所教授になった。

1862年から6年間、幕臣としてオランダに留学し、軍事学・砲術学・蒸気機関等の科学技術から、国際法、鉱物学まで幅広く学び、幕府が注文した開陽丸に乗って帰国した。

 

 

 

開陽丸〔1866年頃〕

 

 

 

その後、軍艦奉行になった。

戊辰年1月に海軍副総裁になったが、3月には徳川幕府は瓦解した。

 

勝は榎本に軍艦を蝦夷地に運び、五稜郭で蝦夷地を守ってほしい旨を伝えていた。

軍艦の半分は官軍に渡すという、西郷との約束も伝えてあった。

 

江戸開城の前に、西郷との約束どおりに、艦船で幕府の旗本と家族を遠州に運んだ。

彼らは三方原などの開墾を行った。

 

江戸開城の後、旧幕府海軍の艦船は、品川沖に遅くまで残されていた。

艦船の兵隊で会津藩を助けたい榎本に対し、勝は「奥州は早晩降伏するよ」と言って出航を遅らせていた。

 

新政府側が軍艦を半分、受け取るのが遅れていた。

榎本は軍艦半分を新政府へ引き渡す約束を拒否し、1868年8月19日に軍艦4艦と船舶4隻を率いて、北方へ向けて江戸湾を出航した。

鹿島灘で暴風に遭い、開陽丸と回天が破損した。

 

9月27日に開陽丸内に会津戦争の敗残者を乗船させて、榎本は秘密会議を開いた。

参加者は、桑名藩主・松平定敬(さだあき)、大鳥圭介、新撰組の土方歳三らであった。

 

そこで「本土に訣別し、蝦夷地の未開を拓き、不毛を耕して母国を作らん」というスローガンを決めた。

 

艦船は石巻港を10月18日に出航して、蝦夷地に向かった。

函館に着くと、榎本武揚らは、西洋式城塞である五稜郭城に入った。

 

 

 

箱館戦争前の榎本武揚〔1868年〕

 

 

 

その城は星の形をしており、大砲により防備するように造られていた。

中央に広い館があり、その屋根に二層の望楼が建っていた。

 

榎本は蝦夷地を開発して、旧幕府の友藩の人々を移住させ、新政府と対等に付き合う独立国にしようと考えた。

 

10月25日に松前藩に降伏を勧告し、元新撰組副長・土方歳三率いる賊軍が、松前城を陥落させた。

 

榎本武揚は1868年12月14日に、蝦夷地独立を宣言した。

選挙によって、蝦夷島総裁に榎本武揚が、副総裁に松平太郎が、函館奉行に永井玄蕃が、松前奉行に人見勝太郎が撰ばれた。

 

 

 

箱館戦争当時の人見勝太郎

 

 

 

イギリス公使館書記のアダムスは著書『日本史』に「函館共和国が独立し、大統領は榎本武揚である」と書いている。

榎本総裁は「事実上の独立国」として、半年間外国船から港税を徴収した。

 

榎本は函館の外国領事館に、交渉を始めた。

そして12月に、イギリスとフランスの公使に、戊辰戦争の仲介者となって、蝦夷地が徳川家親族のものであると、認めることを求めた。

 

ところが、徳川本家を継いだ家達(いえさと)や水戸徳川家の昭武は、「脱走兵は自分たちとは無関係である」と表明した。

 

翌年2月に榎本はプロシア人・ゲルトネルに、蝦夷地の七重村付近傍を99か年貸し与え、金を借りることにした。

これは外国租界ができる恐れがあった。

 

その話を鹿児島で開いた西郷は薩摩藩兵を集め、船で出帆した。

江戸では大村益次郎が、「もう函館の賊は降参しているよ」と言った。

 

それでも西郷は止めようとはしなかった。

西郷は放って置けない性格であった。

もう1隻の船に兵を集め乗せて、2隻で5月5日に品川を出帆した。

 

さぼ