閏4月25日に官軍のいる岩城国白河城を、会津・仙台両藩の兵士3,000人が襲い、7門の大砲の攻撃を浴びせ、官軍700人を追い払った。

これは新政権に対する、完全な反乱であった。

 

西郷はそれを、待っていた。

会津側が先に攻撃したのだから、官軍が東北側を攻める十分な理由が出来たことになる。

 

西郷は京都にいる大久保に手紙を送り、東北征討を始めることを通知した。

そして5月1日に、薩摩藩兵に奥羽の出兵を命じた。

 

5月3日には越後6藩が加わって、31藩加盟の奥羽越列藩軍事同盟となった。

これで反乱が、東北全体に広がることになった。

 

これを知って、横浜からプロシア商船が武器、弾薬を積んで開港した新潟に向かった。

そしてスネル兄弟が、米沢藩を通じて武器を売りまくった。

長岡藩では河井継之助が、ガトリング砲やエンフィールド銃を買い込んだ。

 

 

 

エドワルド・スネル

 

 

 

長岡藩攻めの官軍は、5月半ばに南から侵入し朝日山に陣取った。

長岡藩は、新兵器を使いたかったらしい。

官軍に向かって峠まで進軍し、攻撃を繰り返した。

それにより、兵力を消耗した。

 

 

 

河井継之助

 

 

 

太平洋を官軍の軍艦2隻が北に向かい、6月19日に常陸国北端の平潟に着いた。

兵1,500が上陸した。

その薩摩藩兵の指揮者として、富村雄参謀が加わって、平や三春方面を攻撃した。

 

7月21日には、別の官軍艦隊が柏崎に着いた。

西郷率いる薩摩軍や、長州・加賀藩の軍勢が上陸した。

指揮者の西郷は、わざと進撃をゆっくり行った。

 

例のように黒田参謀が表面にいて、西郷は宿舎に隠って外に姿は見せなかった。

陰武者の永山弥一郎が、西郷の作戦を黒田参謀に連絡していた。

 

太夫浜に上陸した官軍は、新潟を攻撃した。

7月29日には、長岡藩が総攻撃を受け、城兵は脱出し敗北した。

 

長岡藩の敗北が、1つの山であった。

相馬藩は白旗を立てて官軍に降伏した。

富総参謀は、相馬藩士に告げた。

 

「相馬藩はこのままだと、領地を削られる。官軍に加わり賊軍を攻めるならば、領地は全て残るであろう」と。

相馬藩は8月7日には、逆に仙台藩に対し攻撃を始めた。

 

7月半ばに弘前藩は同盟を離脱し、庄内藩攻撃に動いた。

蝦夷地の松前藩では、7月末に官軍派のクーデターが起こり、その結果、官軍側に付いた。

 

盛岡藩は同盟を捨て、秋田藩の攻撃に向かった。

9月4日に米沢藩が降伏すると、仙台藩と天童藩も続いて降伏した。

 

7月17日に、江戸は東京と改められた。

1868年に改元があり、慶応4年9月8日は、明治元年となった。

以後一世一代と決められた。

 

柏崎に西郷とともに上陸した西郷家の下男・熊次郎が、二本松にいた薩摩軍の富総参謀の所に来た。

「西郷は庄内藩へ、ゆっくり進んでいる。会津藩が降伏したら、すぐ知らせてくいやれと、西郷どんが言っちょる」。

 

江戸で庄内藩が藩邸を攻撃したことを、西郷は感謝していた。

その攻撃で、鳥羽官幕戦争が出来た。

それで、庄内藩攻撃の手を緩めていた。

会津若松が落城すれば、庄内藩をすぐ許すつもりであった。

 

9月上旬に若松の町を、3万の官軍が取り囲んだ。

富総参謀は13日を総攻撃日と決めて攻撃したが、会津藩は抵抗を続けた。

 

アームストロング砲を主とする砲弾を一日、3,000発ずつ若松城に打ち込んだが、なかなか落城しなかった。

 

 

 

会津若松城

 

 

 

若松の落城前に、斥候に出た少年・白虎隊20人は、城から煙が立ち上るのを見て、落城したと思い飯盛山で自刃した。

死に至った者は15人であった。

 

この従軍中に富参謀長が水を飲んでいたところ、敵に槍で刺され傷の痛みに怯まず、振り返りざまに相手を討ったとの話がある。〔『大社町総合年表』西橋忠正等の執筆参照〕

 

長州軍と参謀・山県は遅れて。9月14日に会津に到着した。

会津攻撃に参戦していた西郷吉二郎〔吉之助の次の弟〕は、腹部を銃弾が貫通し絶命した。

 

9月22日になって、やっと若松城に白旗が上がり、官軍の矢止めとなった。

23日に白地に降参と墨書きした旗を掲げて、藩主・容保は落ちて去った。

 

富の指図で使者・熊次郎が、庄内平野に向けて走った。

通知を受けた西郷は、鶴岡城内に26日の総攻撃を告げた。

 

翌日、庄内藩は降伏した。

藩主・酒井忠篤は自ら、城外の寺に入って謹慎した。

藩士も城を出て、自宅で謹慎した。

官軍は15,000人は一二泊しただけで撤兵した。

 

黒田参謀は「撤兵が早すぎる。藩主は隣国へ移すべきだ」と主張したが、西郷は言った。

「武士が一度兜を脱いで降伏した以上、その心配はなか。もし謀反すれば、また来て討てば良か」と。

 

弟・吉二郎の戦死を聞いた隆盛は涙をこぼし、頭の毛を剃り入道頭になった。

そのあと西郷はすぐ、薩摩藩兵とともに鹿児島に帰った。

 

西郷軍の寛大さに感激した庄内藩士が、薩摩藩の藩校に大勢、国内留学に来た。

そして西郷隆盛の独特の言葉を聞き集め、『西郷南州遺訓』〔新人物往来社〕がまとめられた。

 

さぼ