次期将軍に決まったという田安亀之助に対し、駿府に移し70万石を与えることを、西郷は約束した。

それに対し、江戸の旗本と家族を駿河国に移すと、勝が述べた。

 

後で江戸の無血開城が実現するが、それが可能になった主な理由は、上の2点の約束の結果であった。

 

勝は海軍副総裁・榎本武揚に命じて、その人々を汽船2隻で運ばせた。

 

旗本と家族の総数は8万人を越え、輸送日数は20日間も要した。

 

その人々は、沼津から浜松にかけて、大地主の家に数家族ずつ泊まった。

その後、彼らの中には、荒地を開墾して茶畑などを作り、農家になった者もいた。

 

江戸上野の岡には、徳川家の寛永寺があった。

そこは、高野山に匹敵するほどの38を越える寺院・坊閣が建ち並んでいた。

 

 

 

寛永寺 根本中堂〔台東区上野〕

 

 

 

そこで仏像と将軍の墓を拝ませたから、上野の岡はいわば徳川教団の本山のような存在であった。

 

城下町には寺町があり、いざの場合そこにも藩士が集まり、城兵と共に防衛することになっていた。

江戸の防衛計画も、同じであった。

 

封建時代の武士の精神は「一所懸命」である。

「同じ殿のために、命を懸けるべき」と教えてきた。

そのような真面目な考えが、まだ生きていた。

 

上野の院坊では、僧侶が立ち去り、空き屋になっていた。

「一所懸命」の旗本の抵抗分子に、海舟は将軍のいる上野の岡に住むように、仕向けたという。

 

西郷は江戸城総攻撃の延期を、官軍に命令した。

勝の案を持って、西郷は駿府で総督府見解を定め、上京して新政府の了解を取り付けることになった。

その結果が、5か条の勅旨となった。

 

4月4日に総督・橋本が江戸城に入って、勅旨を田安慶頼に伝達した。

当時の二重橋は、現在の馬場先御門の二重橋とは別物であった。

 

 

 

江戸城

 

 

 

江戸開城最終条件〔勅旨〕は、次のものであった。

 

・徳川の家名存続を許して慶喜は死罪一等を軽減し、水戸へ退隠謹慎する。

 

・城は明け渡し後、尾張藩に引き渡す。

 

・軍艦・銃砲を引き取り、追ってふさわしく差し返す。

 

・城内住居の家臣は城外へ退き、謹慎する。

 

・慶喜謀反を助けた者は死刑ではなく、ふさわしい処罰を行う。

 

この最終決定は、徳川側の予測よりは、大幅に寛大なものであった。

1868年4月11日、江戸は無血開城となった。

城引き渡しの儀式に、官軍として西郷隆盛が一人参列した。

その日、徳川幕府は終わりを遂げた。

 

 

 

徳川慶喜の謹慎

 

 

 

同じ日に上野寛永寺の大慈院から、徳川慶喜が水戸へ退隠した。

江戸では上野の岡に、将軍を守るという名目で、反抗分子が彰義隊を結成して集まっていた。

 

しかし旗本たちが駿河国に移住したので、水戸と駿河のどちらに行くべきか迷って、留まってしまった。

しかし、何の抵抗戦もなかった。

 

上野の岡には新政府に不満を持つ、各藩の脱走兵も集まって来た。

つまり江戸城に代わる、不満のガス抜き場が上野の岡であった。

集まった総数は2,000人を越えた。

 

いつまでも残っている彰義隊を処分する仕事が、官軍に残された。

しかし総督府参謀・海江田信義〔薩摩藩士〕は、西郷の指示で兵力不足を理由として、閏4月を含めて2か月以上攻撃に反対し、攻撃を引き延ばした。

 

京都政府は遅れにしびれを切らして、4月27日に大村益次郎〔長州藩士〕を新しく軍防官判事に任命して、彰義隊攻撃を始めるよう命じた。

 

 

 

大村益次郎

 

 

 

東北で反乱が起きるのを待っていた西郷と海舟は、閏4月25日に東北反乱軍が白河城を襲い、5月上旬に東北藩の反乱同盟が出来た知らせを受けた。

 

西郷は海江田に、彰義隊攻撃を指示した。

大村は彰義隊を全滅させる方針であったが、西郷が東北側に官軍を配置せずに、そこから彰義隊士を追い出す作戦を主張した。

 

薩摩軍と肥後軍らは寛永寺の正面を塞ぎ、西北の背面を長州軍が固めた。

不忍池から本郷にかけて、肥前や尾張藩の大砲が並んだ。

 

5月15日、官軍は一斉攻撃を開始した。

彰義隊士は、刀を抜いて白兵戦を始めた。

そのとき、本郷台にあったアームストロング砲が火を吹いた。

 

 

 

上野戦争の図〔歌川芳盛〕

 

 

 

砲弾は、吉祥閣を焼いた。

それを合図に、官軍が寛永寺の諸院諸坊に火を放った。

背面の官軍が天王寺方面からも総攻撃し、袋のネズミとなった彰義隊士は、官軍のいない東北側から逃げ失せた。

 

勝海舟は江戸中の火消しを氷川の自分の屋敷に集め、分担して各町の防火に当たらせた。

このときの氷川の屋敷は、徳川方の最後の本部のようであった。

 

 

 

勝海舟邸跡〔港区赤坂6丁目〕

 

 

 

上野の岡には、そのあと公園と動物園・博物館・美術学校などができて、徳川教団施設であった時よりも、人民の役に立っている。

 

西郷の銅像が上野公園に、1898年に建てられた除幕式に招かれた西郷の妻は、銅像を見て驚いて叫んだという。

 

「宿の人は、こげな人じゃなかった」と。

 

隆盛は痩せ形の人で、鋭い目つきをしていた。

後世の人のイメージで、銅像は作られたものであった。

 

江戸の治安が回復した後の5月24日に、徳川家の新後継ぎとして家達(いえさと)〔亀之助〕が任じられ、70万石を封じる勅旨が示された。

 

 

 

徳川家達〔田安亀之助〕

 

 

 

坂本龍馬が不慮の死に遇ったあと、かれの未亡人・お竜を哀れみ、隆盛は未亡人に生活費を毎月贈り続けた。

隆盛は、そのような律儀な男であった。

 

隆盛が江戸開城後、江戸に住んでいた頃、お竜は神奈川宿の仲居になった。

知人のいる近くで暮らしたかったようだった。

 

隆盛が東北の戦地に面向いたあとは、彼女は横須賀に移住した。

そこには旧幕府が作った造船所があった。

 

そこに海舟が、時々訪れた。

お竜と海舟は、古くからの知り合いであった。

お竜はそこで海舟と時々、顔を合わせたかったようであった。

 

さぼ