東海道の進軍中に、総参謀・西郷と参謀・村雄は宿屋の同じ部屋に泊まった。

総参謀の西郷は行軍以外には、宿から一歩も出なかった。

暗殺を防ぐためであった。

 

西郷と村雄で決めた作戦を、村雄が永山に伝えに行った。

東征軍の宿場の決定や出発時間や休憩の合図は、永山が西郷に代わり隊長に命じていた。

 

西郷は地図を調べて、海岸に近い街道では山川の道を通らせた。

すなわち浜名湖の南にある新井関や舞阪を、通るのを避けた。

それは賊軍艦船からの、艦砲射撃を避けるためであった。

 

駿府に着くと3月9日に、薩摩の「くつわ〔丸十字〕じるし」の旗を立て、東から来た者たちがいた。

江戸の勝家に隠れていた、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)であった。

 

益満は顔が知られていたので、官軍の陣営に難なく入れた。

これは、西郷と勝との計略どおりで、海舟の使者・山岡鉄太郎を連れて来た。

 

山岡は剣の名手で、新撰組になる浪士組を、江戸から京都に連れて行く浪士取締役を果たしたこともあった。

 

しかし山岡は、命知らずの反抗分子であった。

勝は彼を利用したのであった。

山岡が海舟の手紙を、西郷に渡した。

 

「いま国内で兄弟が、争っている場合ではない。内戦が起きれば、外国の侵略を招く。江戸庶民はどちらに付くかで大混乱になり、収拾のつかない大戦争になる」と警告する内容であった。

 

「将軍・慶喜は、すでに江戸城を出て、上野寛永寺の大慈院で謹慎している。これを撃つのは、道理に反する」と書かれている。

これは表向きの、手紙であった。

 

 

 

徳川慶喜の謹慎

 

 

 

益満が勝の密書を、西郷に手渡した。

それを西郷が村雄に見せた。

「徳川方の軍艦と武器は半分、没収から除いてくれ。ロシアが狙っている蝦夷地を、榎本に守らせたい」と書いてあった。

 

1861年には、ロシア軍艦・ポサドニックが対馬を占領しようと試みたので、島民と衝突する事件があった。

領土的野心があるロシアに、海舟はひどく心配していた。

海軍を強化する必要を、海舟は唱えていた。

 

「江戸の不戦占領のためには、強硬反抗分子に武器を持たせて、東北に追いやるのが得策である。日本が新しく変わったことを、全国に知らせるためには、官軍が東北で旧幕府側を追う払う必要がある」

 

これで、海舟の本心が分かった。

 

中座して有栖川宮と協議したあと、江戸城総攻撃中止の官軍側条件7か条案を、西郷は山岡に示した。

 

1. 慶喜は備前〔岡山〕藩へ預ける。〔はじめは死罪と言われていたが、謹慎恭順により、処置が軽減された)

2. 城は明け渡す。

3. 軍艦は残らず引き渡す。

4. 武器は一切引き渡す。

5. 城内居住の家臣は向島へ移す。

6. 慶喜妄挙を助けた者は処罰する。

7. 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する。

 

5.の「向島へ移す」の文句は、勝の意見を容れたものであった。

 

江戸城内には、家臣や旗本の屋敷があった。

彼らが留まり、官軍に抵抗することを、海舟は恐れた。

各藩の大名屋敷が、向島などで空き屋になっていた。

そこに城から移り住むように、海舟が誘導する。

 

それは旗本らを、隅田川の外側〔向島〕に追いやる意味があった。

また慶喜が謹慎している寛永寺の横を通る途中、官軍に反抗したい者を寛永寺のある上野の岡に、留まらせる意図があった。

 

山岡には、3月15日に江戸城攻撃予定であることが、知らされた。

徳川方からの江戸城明け渡しに目処がついたから、新政府は3月14日に「5か条の誓文」を発表した。

 

それは後藤象二郎が大政奉還の建白書を提出したとき、「船中八策」を説明した。

その「船中八策」の内容を書き直したものが、「5か条の誓文」であった。

 

官軍の江戸開城案を受け取った勝は、その文言を高札場に示し、江戸町人にも、官軍進撃の情況を知らせ、心構えを促した。

 

江戸町人の混乱と反抗武士の暴挙を心配した勝は、取締役の与力・同心を組みにして、江戸内を巡回させた。

 

3月14日に勝海舟が高輪の薩摩藩邸を訪れ、西郷と面談した。

朝廷では、人質のような和宮の無事が、最大の関心事であった。

勝は、和宮の安全を保証した。

 

和宮と将軍未亡人の篤姫には、屋敷を用意し十分な生活費と警備が準備されている。

江戸城大奥の管理者・篤姫は、大奥女中に一生の生活費を与えて、実家に戻す用意をしている。

 

大奥女中の江戸城からの脱出は、すぐ開始する。

家臣の脱出より早くなる。

レディファーストである、と海舟は説明したという。

14日は、その話だけで終わりになった。

 

翌15日は田町の薩摩藩邸で、勝と西郷の会談がおこなわれた。

官軍側の7条件に対して、徳川方の7条件案を、勝が示した。

 

 

 

西郷と勝の会談

 

 

 

1. (慶喜は)隠居し、水戸へ謹慎としたい。

2. 城は明け渡し、田安家へお預けとしたい。

3. 軍艦・軍器はふさわしい数を残す。

 

そのほかに、「土民鎮定が行き届くようにする」という項目もあった。

将軍慶喜の後継ぎとして、6才の田安亀之助が決まっている。

 

しかし反抗分子が、将軍徳川慶喜の近くの水戸方面に行くように、徳川家臣にはしばらく秘密にする、と勝は西郷に伝えた。

 

そのとき、中山道の進軍を終えた参謀・伊地知がやって来た。

第2の妥協案を聞いて、伊地知は不審がった。

 

「軍艦と武器は、全部没収する予定じゃ、と俺どんは聞きもしたが・・・」

 

「官軍は武器が足りなかもんで、全部欲しがると思われるのは、恥ずかしかことでごわす」

 

と西郷はごまかしたが、裏の意味を知る村雄は黙して聞き流した。

 

さぼ