鳥羽官幕戦争の敗残兵が大阪城に集まった。

将軍・徳川慶喜は言った。

「全軍退くべからず。この地敗るるとも、関東あり。関東破るるとも水戸あり」と。

つまり、徹底抗戦を強調した。

 

しかし慶喜公は思い出した。

勝安房守が殿に献言した話を。

いま内乱があると、欧米列国により日本は植民地にされます。

将軍が引退することが、日本を救う道です、と。

 

慶喜公は決心した。

よし、拙者は難しい道を歩こう、と。

これが慶喜公の最後の晴れ姿であった。

これは凡庸な将軍の出来ることではなかった。

 

 

 

徳川慶喜

 

 

 

慶喜公はこっそりと城の後門より出て、大阪港に向かった。

松平容保や松平定敬(さだあき)が従った。

慶喜公は停泊していた開陽丸に乗ると、海を渡り江戸に逃げ帰った。

 

西郷は「慶喜公は負ける予定で、動いちょる」と富村雄に言った。

島津斉彬公の使いとして、西郷は慶喜公と会って話したことがあった。

 

彼は水戸藩主の子孫だけあって、考えが広く西洋の近代政治形態にも理解があることを、西郷は知っていた。

 

慶喜は開明派の大名に支持されて、将軍になった。

幕府を終わらせるための将軍であることを自覚していた。

幕兵の犠牲を最小にするには、将軍が逃げて謹慎するのが、最善の策であった。

 

薩摩藩が関東地方で、騒擾(そうじょう)活動〔騒いで秩序を乱す〕を行ったが、海舟は無視を続けていたから、幕閣から謹慎を命じられた。

 

1868年1月12日、江戸の氷川町に住む海舟のところに、幕府海軍局から使いが来た。

「上様がお着きになって、海舟を呼べという仰せです」

 

海舟が浜御殿に駆けつけると、幕臣たちが焚き火を囲んでいた。

会津候や桑名候の姿が見えた。

海舟が伏見の顛末を聞いたが、口を開くものはいなかった。

 

慶喜公がいるのを知らない振りして、海舟は大きい声で言った。

 

「あなた方は、何という事だ。・・・こうなってから、どうなさるつもりだ」

 

聞いた人たちは、誰も青菜に塩のように、弱っていた。

 

海舟は老中・板倉に向かって言った。

 

「だから言わぬこっちゃない。直ぐ江戸に戻れ、と言ったじゃないか」

 

将軍は負ける覚悟は、出来ていた。

だから、官軍との交渉に慣れている海舟を呼んだのであった。

敗戦処理を、海舟に任せるつもりであった。

 

将軍は自分の口から幕臣に言うのを避けて、海舟から将軍の身の振り方を言わせようとした。

海舟は、将軍に恭順論を勧めた。

 

幕府の役人は、幕府の末路を感じとった。

西の丸の二重橋から、堀に投身自殺した下級武士がいた。

失業する、と考えたのであろう。

 

 

 

江戸城旧二重橋

 

 

 

二重橋とは、右手に見える落水(滝)の所の上下二重になった橋の名である。

説明文には「二重橋高く、橋下の落水見事・・・」と書かれている。

下級武士は、上の橋から落水に投身したのである。

 

ところが今は、左に見える大きな橋、すなわち「馬場先橋」を二重橋と呼んでいる。

手前にかかる「正門鉄橋」、奥にかかる「正門石橋」の2つを総称して二重橋と呼ばれている。

江戸が開場になった後、城の住人がすっかり入れ替わったから、橋の名が誤って移動したことに、気がつく人がいない。

 

 

 

明治時代初期の二重橋

 

 

 

勝海舟は海軍奉行並と、陸軍総裁に任じられた。〔『海舟日記』、『海舟語録』〕

幕府の面々は勝海舟の役を、重要視せざるを得なかった。

 

 

1868年1月17日に慶喜追討令が出され、総裁・有栖川宮は、大阪城へ向かう予定が変わり、方向を転換し東征軍の総裁となった。

 

 

 

有栖川宮 熾仁親王

 

 

 

その前に、西郷隆盛と大久保利通と富村雄が密談をおこなった。

慶喜追討の方針は決まったが、幕府が倒れただけで戊辰戦争が終わったのでは、東日本に封建社会が残ってしまう。

 

東北でも東征をおこない、封建時代が終わったことを全国の日本人に実感させないといけない、と意見がまとまった。

「東北戦争を行うべきだ」と西郷が主張し、新政府全体で認められた。

 

「そのためには、京都で討幕の志士を取り締まった会津藩主・松平容保を追討する」ことが決められた。

 

すなわち慶喜追討令と同時に、有栖川宮から伊達藩主に、会津藩主容保の攻撃命令書が送られた。

 

岩倉具視は「東海道の進軍途上で、要衝の尾張藩の不穏分子を処分せよ」と命じた。

それを聞いた尾張藩主・松平慶勝は、それが新政府の命令だと解釈した。

 

驚いて慶勝は名古屋に帰り、官軍支持を表明した。

徳川家を支持して新政府と戦うと言う家老・渡辺と大番頭・榊原など3人を斬刑処分にした。

 

新政府は参与・由利公正(きみまさ)に、東征の御用金穀取扱方に命じ、300万両の御用金集めをさせた。

長州藩は、軍用金を出す余裕はない、と回答した。

 

 

 

由利公正

 

 

 

朝廷はと言うと、先の長州反攻で蛤門付近や南側の塀が壊れ、修理費用不足で盗賊が皇居に入る状態だという。

 

薩摩藩邸に岩倉具視が訪れ、軍用金の捻出を請求した。

西郷は薩摩藩家老・小松帯刀に、工面を頼んだ。

 

生麦事件の慰謝料をイギリス大使に払った関係で、イギリス公使と親交のあった小松家が、ロンドンのオリエンタル銀行から、150万ドルを借りることができた。

 

つまり小松とイギリスは、明治維新の影の功労者であった。

その借金の毎年の返済を、鹿児島人が行った。

西郷は言った。

 

「この資金は、無駄金ではなか。この金で薩摩が、維新のヘゲモニー〔覇権〕を握ることが出来もす。ヘゲモニーなしには、政治の理想は実現出来もはん」

 

 

 

小松帯刀

 

 

 

この軍資金なしには実際に、明治維新は完成しなかった。

その後の近代化も不可能であった。

日本人は目に見えない鹿児島人の貢献を、忘れるべきではない。

 

この「先立つ物」の貢献により、討幕東征軍の総参謀に西郷が就任することが、決められた。

東征軍総督は有栖川宮であったが、軍の作戦と統率は、実質的に西郷総参謀が行うことになった。

総督府参謀には、長州藩の広沢真臣も任じられた。

 

 

 

広沢真臣

 

 

 

その頃に薩摩藩の要人が、暗殺されかかった事件があった。

幕府か上層公家の回し者が狙っていたらしい。

 

薩摩藩邸で西郷隆盛が、出雲出身の尊王志士・富村雄〔大社筆頭上官〕と会った。

西郷は正座して、富と向かい合った。

 

富家の屋根の鬼瓦には、竜鱗紋と銅剣の家紋があった。

銅剣は、出雲王家の象徴であった。

銅剣が紋章であることは、富家が弥生時代よりも、古い家柄であることを示している。

 

「富村雄どん、お前様に討幕軍の参謀になるよう願いしもす。藩から参謀相当の給料を出しもす」

 

村雄は承知した。さらに隆盛は言った。

 

「お前様(まんさあ)は、いつでも俺殿の横に居て給(たも)んせ」

 

村雄は、剣道の達人であった。

隆盛は村雄に護衛の役も期待していると知り、村雄は引き受けた。

 

西郷は永山弥一郎を呼び寄せた。

東海道進撃軍の薩摩藩参謀に、永山を就任させた。

 

「おまんさぁは、有栖川宮の横に、いつでん座っていやんせ」と命じた。

 

永山の顔は、西郷とよく似ていた。

西郷は永山を西郷の陰武者にさせる心算(つもり)であったことを、後で知った。

 

 

 

永山弥一郎〔西郷の陰武者〕

 

 

 

当時は有力者が、写真を写すことが流行していた。

横浜に写真屋が開業していた。

西郷も仲間が集まったとき、写真撮影に誘われた。

そんなとき西郷は、「腹痛がする」と言って姿を消した。

 

撮影が終わって仲間が去った後に、富村雄は厠(かわや)を見に行った。

案の定、西郷がまだ居た。

 

「眠くなりもして、下に落ちそうになりもした」と、彼は笑いながら出て来た。

 

写真は暗殺用に使われるので、西郷は決して写真は写さなかった。

大久保一蔵〔利通の別名〕の人相書きが、隠密に渡されているという噂があった。

 

 

 

大久保一蔵 人相書

 

 

 

東征の官軍は、東海道と中山道・北陸道と3隊に別れて進軍した。

それは各地の人々に、幕府の時代が終わり、官軍が支配する新しい社会になったことを、知らせるのに有効であった。

 

鳥羽官幕戦争の直前に、関東騒乱を行った相楽総三を初めとする草莽(そうもう)ら8人は、赤報隊を名のった。彼らの理想は、年貢軽減令であった。

 

幕末の頃の年貢は、6公4民が普通であった。

すなわち農民は収入の60パーセントを、武士に取られていた。

 

それは重税と西郷は考えていた。

それで西郷は、それを黙認した。

赤報隊は官軍として中山道を進み、「年貢半減令」を宣伝して官軍への協力を呼びかけた。

 

ところが2月になって、京都の新政府は「赤報隊は偽官軍である」との布告を出し、信州の諸藩に討伐を命じた。

 

官軍の先頭には、菊の御紋章のついた錦の御旗が掲げられた。

そして官軍の兵士たちは、品川弥二郎の作ったトンヤレ節を歌った。

歌の文句は各隊のアドリブが混じっていた。

 

宮さん 宮さん お馬の前に

びらびらするのは なんじゃいな

トコトンヤレ トンヤレナ

あれは朝敵 征伐せよとの

錦の御旗じゃ 知らないか

トコトンヤレ トンヤレナ

・・・

 

東海道の進軍中に、総参謀・西郷と参謀・村雄は宿屋の同じ部屋に泊まった。

総参謀の西郷は行軍以外には、宿から一歩も出なかった。

暗殺を防ぐためであった。

 

西郷と村雄で決めた作戦を、村雄が永山に伝えに行った。

東征軍の宿場の決定や出発時間や休憩の合図は、永山が西郷に代わり隊長に命じていた。

 

西郷は地図を調べて、海岸に近い街道では山川の道を通らせた。

すなわち浜名湖の南にある新井関や舞阪を、通るのを避けた。

それは賊軍艦船からの、艦砲射撃を避けるためであった。

 

さぼ