徳川慶喜は10月24日に、将軍職の辞職を上奏したが、26日に朝廷はそれを慰め、しばらく国政を委任する沙汰書を下した。

 

ところが、この日に朝廷から薩摩藩宛てに、10月14日には長州藩宛ての討幕の密勅が届けられた、と言われた。

 

すなわち、10月13日の日付の薩摩藩宛ての密勅と、14日の長州藩宛ての密勅が存在する。

討幕派はこれらの密勅は、重要だと主張した。

 

つまり討幕密勅の日と12月の王政復古の宣言の日との間・約2ヶ月は、徳川幕府に政権があるのか、ないのかわからなくなった。

 

討幕の密勅は偽物だという説があるが、ともかく朝廷が国政委任の沙汰書を10月26日に書いて幕府に渡したのだから、後で書かれた沙汰書が有効だ、と考えられている。

 

1867年12月9日に天皇の命により御所に、討幕派の薩摩藩と芸州藩、それに公議政体派の土佐藩と越前藩・尾張藩の代表が集められた。

その藩兵が御所を守ることになった。

京都守護職の会津兵と所司代の桑名藩兵もいた。

 

そこで「王政復古の大号令」が出された。

そして徳川慶喜の将軍職辞退を承認し、幕府と摂関の職務を廃絶した。

 

京都守護職はなくなり、松平容保は解職となった。

所司代の松平定敬(さだたか)は失職した。

 

仮に総裁と議定・参与の三職を置く、と宣言された。

集まった五藩から3人ずつの藩士が、参予〔朝議を補助する役職〕に任じられた。

参予には、西郷と大久保・岩倉・後藤らが入っていて、実権を握った。

 

西郷は旧京都守護職と旧所司代に、職務の終わった会津や桑名の藩兵を、御所から退去させるよう求めた。

 

すこし前の11月13日に、薩摩藩主・島津忠義が、多くの兵を連れ上洛していたので、薩摩藩兵が続々と御所に入った。

 

その日、小御所で会議が開かれた。

西郷は「丸十字」の旗指物の薩摩藩兵を指揮し、小御所を囲ませた。

 

会議が始まると、公議政体派の山内容堂が慶喜を議定に参加させるよう要求した。

さらに「この王政復古のやり方は、幼い天皇を擁して権柄(けんぺい)〔権力を笠に着て横柄に振る舞うこと〕を盗もうとするものである」と批判した。

 

岩倉はすかさず「御前」〔天皇の御前で失礼〕と一喝した。

休憩中、座をはずした岩倉と後藤に、西郷は「短刀1本あれば、片付く」と殺意を込めて言った。

 

後藤は小御所を取り巻いた「丸十字」の薩摩軍団を見て、顔色を変えた。

後藤は山内大名に「西郷が来て、刺すと言っている」とささやいた。

山内は、以後沈黙した。

 

薩摩兵のクーデターのような小御所会議で、朝廷の外交を正当と認め、幕府の失敗を論じて閉幕となった。

 

「これで、薩摩がヘゲモニー〔覇権・リーダーシップ〕を取ることが出来もした。ヘゲモニーがなくては、理想は実現出来もはん」と西郷は富村雄に語った。

西郷はイギリス人から聞いた「ヘゲモニー」の言葉をよく使った。

 

新政府は徳川慶喜に、領地領民の返還を求めた。

慶喜は猶予を求めた。

二条城に集まった会津や桑名の藩兵は、薩摩兵と戦うと憤激した。

 

将軍は衝突を避けるために、重臣の松平容保・松平定敬や各藩兵を連れて大阪城に退去した。

 

小御所会議は、討幕派が勝利したかに見えた。

しかし、参予の数では、討幕派は劣勢であった。

 

岩倉は、後で弁解した。

「この形でないと、公議政体派が王政復古儀式に参加しないから、やむを得ない過渡期の処置でした。一か八かの賭けでした」と。

 

「私は平等主義者です。公武合体を進めたのは、徳川の権力を少しずつ朝廷に移す過渡期手段でした」と岩倉は語った。

 

大久保も語った。

久光公に「上洛と幕政改革をすすめたのは、俺殿(おいどん)は幕藩体制を崩すのが狙いごわした」と。

 

そのあと公議政体派は、慶喜を新政府〔臨時革命政府〕の議定(ぎじょう)に任命する手続きを進めた。

三職会議では、それが承認された。

 

討幕派は何か新手を考えなければ、勝つ見込みがなくなった。

徳川家は依然として広い領地を持ち、多くの大名の支持があった。

 

しかし、長幕戦争で幕府の無力が示された。

そして討幕派になった芸州藩が、新政府の要職に就いた。

それで討幕派に付く方が有利だと、考える藩が増えた。

 

去る10月に、西郷は関東で撹乱を起こすように、益満(ますみち)休之助と伊牟田尚平を送った。

それは徳川方を挑発し、内戦に導く作戦であった。

彼らは江戸の薩摩藩邸に浪士を集め、各地の幕府陣屋を襲撃させた。

 

 

 

駐日アメリカ総領事館の通訳・ヘンリーヒュースケンの暗殺

 

 

 

12月15日には、相楽総三らが小田原支藩の荻野山中陣屋を焼き払い、弾薬や軍資金を奪った。

彼らは、丸十字の薩摩藩の提灯を使っていた。〔『神奈川の歴史百話』参照〕

 

また徒党を組んで、討幕資金を集めると称して、豪商・豪家を襲い金品を奪った。

当時幕府は新徴(しんちょう)組が組織されていて、江戸取締りの任にあったのは、庄内藩〔鶴岡17万石〕主・酒井忠篤であった。

 

益満休之助が薩摩藩家老・西郷隆盛の使として、庄内藩邸に行った。

そして人払いして藩主に「西郷からの秘密の話を伝えに参上した」と言った。

「話とは、薩摩藩邸を攻撃して貰いたい、ということでごわす。これは、わが国に役立つことでごわす。薩摩は攻撃されるために、嫌われる仕事をやっていもす」と言った。

藩主は考えた後で納得し、うなずいた。

 

後日、庄内藩の三田の屯所に、薩摩方浪士たちが発砲を加えた。

益満は、約束のとおりに海舟の屋敷に隠れ、以後下男として働いた。

 

酒井忠篤は幕府の当番目付・阿部に会って、薩摩藩邸を攻撃するから、幕府の陸海軍も加勢を頼むと申し入れた。

 

薩摩藩邸の浪士たちが蒸気船で逃げる準備しているから、海軍が取り押さえてほしい、とも言った。

 

12月25日の早朝、薩摩藩邸攻撃が行われた。

庄内藩兵1,000人と他藩の1,000人が出撃し、薩摩藩邸と支藩の左土原藩邸を焼き討ちした。

 

各藩邸に四斤山砲が5門ずつ配備され、火を吹いた。

始めは正門と裏門を毀(こわ)し、次に主な建物を焼いた。

中にいた浪人たちは、塀を乗り越えて逃れた。

 

彼らは品川海岸から薩摩の翔鳳丸(しょうほうまる)に乗って、江戸湾を脱出した。

それを幕府軍艦・回天が追撃したが、伊豆方面に翔鳳丸は逃げ去った。

 

薩摩藩邸の焼き討ちを知り、大阪城では1868年元日に「討薩の表」を起草した。

それを天皇に提出するために「旧幕府軍が京都に進軍する」と宣言した。

 

徳川兵と会津・桑名藩兵・15,000人が、二手に分かれて京都鳥羽口と伏見口に進軍した。

会津藩は勇敢であったが、装備は槍と鉄砲が中心であった。

対する薩長軍は4,500人であったが、大砲を装備していた。

この大砲が勝敗を決めた。

 

1月3日、新政府は徳川軍を「賊軍」と宣言し、薩長軍に「錦の御旗」を授けた。

錦の御旗とは、天皇家の家紋を付けた旗指物であった。

 

「錦の御旗は建武の中興の際、楠木正成軍に後醍醐天皇が授けたものだ」と岩倉は説明したが、現物は残っていないし、見たという記録もない。

 

実際は大久保が作るように頼まれ、大和錦の帯を買い込んで来た。

それを旗の長さに切り、「菊の御紋」を有職師に作らせ縫い付けた、と言われる。

 

3日には、鳥羽と伏見の町で、薩長軍が徳川方の進軍を阻んだ。

伏見では土佐藩兵も参戦した。

進軍できず業を煮やした旧幕軍が、鳥羽で薩長軍に発砲した。

 

それを待っていた薩摩軍の大砲が、火を吹いた。

降り注ぐ砲弾で、死傷者が続出した。

伏見では会津兵が槍と鉄砲で白兵戦を繰り広げたが、薩長軍の大砲による砲撃により苦戦して敗退した。

官軍が勝利したのは、大砲の使用による大攻撃力の効果によると言える。

 

 

 

薩摩軍の大砲

 

 

 

西郷は言った。

「鳥羽で敵が始めた射撃は、1万の味方を得たよりも、嬉しかもんごわした。あれで薩長は官軍になれもした」

 

4日に討幕軍の陣営に「錦の御旗」が立てられた。

これにより、旧幕軍は賊軍であることがハッキリした。

それを見て、旧幕軍は退却を始めた。

彼らは淀城に逃げ込もうとしたが、裏切った淀藩〔稲葉氏〕の入城拒否に遇った。

 

西に逃げ木津川を渡った旧幕軍に、山﨑に陣をかまえる津藩〔藤堂氏〕も裏切り、大砲の砲弾を浴びせかけた。

 

敗残兵が大阪城に集まった。

将軍は言った。

「全軍退くべからず。この地破るるとも、関東あり。関東敗るるとも水戸あり」と。

つまり、徹底抗戦を強調した。

 

さぼ