島津久光は朝廷に、有力大名会議の政体の設立を提案した。

すなわち公武合体を進化させて、朝廷の下に大名会議を置いて、政治を行う体制の実現を求めた。

 

朝廷は1863年12月末日に、新体制を発表した。

朝議参与という役が設けられることになった。

朝議参与に、徳川慶喜と松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城が任命された。

半月遅れて、島津久光が任命された。

 

これは久光の感情をそこねた。

薩摩藩が寺田屋騒動で自分の藩士を斬る犠牲を払って、幕政の改革を要求した。

そのお陰で一橋慶喜は、将軍後見職になれたのではなかったか。

 

山内豊信や伊達宗城は、たいして苦労をしていないではないか。

 

そのような人が先に、朝廷の重職に任命された。

つまり努力を惜しんだ者が、政治の主導権を握ったことになる。

 

久光は、考えを変えた。

薩摩は実力で、大名のリーダーになろう。

そして主導権〔ヘゲモニー〕を発揮しよう。

そのために1864年2月に西郷を、流刑地の沖永良部島から呼び戻した。

 

若い薩摩藩主・忠義から城代家老に任命された小松帯刀が、久光の代理として朝議参与会議に出席することが多くなった。

 

後で天皇は、開明派大名の多い参与会議を好まず解体し、幕府に横浜鎖港を指示した。

それで幕府は、横浜港への生糸回送を停止させた。

 

天皇は西洋の市民革命後の、政治形態を好まなかった。

平等社会にも不安を感じた。

それで西洋の影響を避けるための、攘夷を重要視した。

 

開明派の大名も、攘夷派志士の動きに賛成ではなかった。

社会の革新を途中で止めたい、と考えていた。

 

1862年の島津久光の状況と、幕政改進の提案が成功したのは、寺田屋で薩摩藩の過激志士を斬ったからであった。

 

志士たちに階級破壊を止めさせることに、朝廷と幕府が期待したからであった。

朝廷と幕府の支配階級は、自分の特権を失うことには反対であった。

 

 

1864年3月に、水戸藩の天狗党を呼ばれる勤王攘夷派が決起した。

武田耕雲斎や藤田小四郎らが、裏日本を通って京に向かった。

 

しかし年末には、天狗党は加賀藩に降伏した。

その353人は処刑された。

この天狗党の挙兵は失敗したけれども、後の池田屋事件や長州藩の京都出兵に影響し、維新を進める働きを果たしたと考えられる。

 

この時点では、政治のヘゲモニーは薩摩藩優位であった。

それに対し長州藩は、ヘゲモニーを取り戻すことを狙っていた。

 

1864年6月5日、長州藩と土佐藩の尊王攘夷派志士たちが、京都三条の池田屋に集まった。

彼らは武器弾薬を使って、御所を襲い天皇を長州に動座する、という計画を練っていた。

 

商人に化けた長州系志士・古高が、すでに大量の武器弾薬を準備していた。

彼の自白により、情報を得たのは新撰組であった。

 

新撰組は、京都守護職預かりとなっていた。

つまり幕府が使う、命知らずの殺し屋であった。

局長・近藤勇ら新撰組30数名が、守護職に先駆けて池田屋を襲った。

 

屋内の志士の部屋では、刀を他の部屋に置いていたので、志士の7人が斬られ即死し、重傷の9人が死んだ。

逮捕者は14人であった。

 

土佐藩の脱藩志士・坂本龍馬はこの事件と大きく関係していたが、間一髪で逃げ失せた。

 

長州藩・京都留守居役の桂小五郎〔後に木戸孝允と名を改めた〕も、危うい所で難を逃れた。

そののち彼は、新撰組らの暗殺を恐れて、行方をくらました。

彼は「逃げの小五郎」と呼ばれ、非難された。

 

 

 

池田屋跡〔京都三条木屋町〕

 

 

 

前年の過激派排除の宮廷政変〔宣秋門(ぎしゅうもん)の変〕以来、長州藩では穏健派が有勢(うせい)になっていた。

ところが池田屋事件で長州派志士が多く斬殺され捕縛されたことへの報復を主張する、過激派の勢力が今度は強くなった。

 

 

彼らが藩主の許可を得て、長州藩としての挙兵を呼びかけた。

藩内にはこれに応じる者が多く、6月には2,500余人の藩兵が、京都に向かって進撃をはじめた。

 

長州藩海軍基地・三田尻では、久留米脱藩の真木和泉が総督になり、諸藩の脱藩浪士を集めた。

土佐藩の中岡慎太郎も加わった。

長州藩の前原一誠は世話役になっていた。

 

彼らは6月半ばに三田尻を出航し、軍艦で大阪に上陸し淀川を逆のぼり、山﨑に布陣した。

長州軍は総勢3,000人を越えた。

 

それに対し、総指揮者となった徳川慶喜は諸藩に、朝廷警護を命じた。

会津藩や桑名藩・薩摩藩などが兵を出した。

 

長州軍は伏見や嵯峨・山﨑などに、陣を構えた。

家老の福原越後が率いる長州軍500人は、伏見街道を北進したが、大垣藩兵と衝突し苦戦ののち転進した。

 

山﨑からは、家老・益田右衛門介の軍600余人が進撃した。

嵯峨を出発した家老・国司信濃(くにししなの)が率いる1,900人の遊撃隊は、二手に分かれて京都内で戦い御所に向かった。

 

御所の危機を救ったのは、会津藩と薩摩藩の軍勢であった。

蛤御門付近を警備していた会津藩の軍勢が、長州軍に攻撃を繰り返した。

 

遅れて参戦した薩摩軍は、4門の大砲で長州軍に大打撃を与えた。

薩摩藩兵を指揮していたのは、西郷隆盛であった。

 

長州藩の討幕軍が公武合体政権を攻撃するのを、倒幕派が多い薩摩藩が撃破するのは、疑念を抱くかもしれない。

ちなみに、朝廷より幕府追討の院宣が出るまでは反幕府軍による「倒幕」〔クーデター〕で、天皇から幕府追討の院宣が出た後は、反幕府軍が正式に「官軍」になり「討幕」〔討ち滅ぼして良い〕になる。

 

西郷は藩主からの流刑を2回受けてから、藩主の大名中心主義を思い知った。

これに逆らっては何もできない。

途中までは、藩主の考えを尊重することに方針を改めていた。

 

西郷の座右の銘は「敬天愛人」であった。

その「敬天」は天皇を敬う、つまり尊王主義であった。

御所を攻める軍勢を、御所の遠くに追い払うのは当然のことと、西郷は考えていた。

 

数で圧倒する幕府側の軍勢に、越前藩の軍も加わったので、長州軍は劣勢となり敗退した。

一連の戦闘で消失した家屋は、28,000軒を越えた。

 

京都市中の3分の2が焼け落ちた。

京都の損害は「応仁の乱」に匹敵するものであった。

これを「変」と呼ぶのは、適当ではない。

 

これは幕府〔と公武合体派〕を攻撃する「長州軍の京都戦乱」であって、「禁門の変」と呼ぶほど小さな事件ではなかった。

 

長州は泣きっ面にハチと言うか、長州軍反抗戦敗北の半月後に、4カ国連合艦隊17隻が長州に来航し、下関〔馬関〕に艦砲射撃を浴びせた。

 

長州は前年5月にアメリカ商船を砲撃した後も、フランスやオランダ・イギリスの艦船を攻撃した。

それらの国の報復艦砲射撃が、8月5日に始まった。

 

米英の軍艦から発射された砲弾は、正確に港や藩の建物を破壊した。

それに対し、長州の砲台の大砲の射撃は不正確であったので、あきらめて発射を止めた。

 

長州藩はすぐ降伏しようとしたが、高杉晋作は伊藤博文や井上馨らとともに抗戦を続行した。

伊藤博文や山縣有朋は、士分ではなかった。

しかし松下村塾で学んで、松陰の推薦で士分扱いとなった。

 

伊藤は下層階級出身であったから、四民平等を望んだ。

イギリス留学をして、市民革命を目標と考え、討幕の志士となった。

 

下関一帯は瞬く間に、戦火に包まれた。

外国の軍艦から1,900人の陸戦隊が上陸し、砲台や町は占領された。

長州藩は翌日に降伏し、使者として高杉晋作が敵艦に乗り込んだ。

 

英語が話せる伊藤と井上を、通訳として連れて行った。

高杉は日本書紀を持参し大声で読み上げ、日本の王は神代の昔から天皇である、と話した。

 

賠償金が欲しいなら、天皇から軍事を任された将軍・徳川家が払うことになっている、と喋りまくった。

それを信じた4カ国艦隊は、退去した。

 

 

 

徴収征討の図

 

 

 

弱っている毛利藩を潰すのは、今がチャンスだと考えた幕府は、朝廷に長州征討の勅令を要求した。

勅令を得ると8月2日に、幕府は長州藩征討のための出兵を36藩に命じた。

 

さぼ