長州や土佐たちの攘夷過激派は、下級公家と一緒になって貿易港の閉鎖を求め、幕府に攘夷の実行を迫るための大和親征を求めた。
8月13日に、攘夷親征の詔勅が出た。
土佐出身の攘夷派民間人・吉村虎太郎らが、天皇の親征行幸に呼応するため天誅組を組織した。
17日には公家・中山忠光を擁して大和五条幕府代官所を占拠し、年貢半減を布告した。
薩摩藩は攘夷過激派の追放を考え、中川宮朝彦親王と会津藩とが計画に賛成した。
18日には早朝に、会津藩兵と薩摩藩兵が御所の6門をかためた。
天皇の承認を得て御所西面の宜秋(ぎしゅう)門で、京都追放が決定された攘夷過激派公卿の名を書いた書面が見せられた。
三条実美や沢宣嘉(のぶよし)たち七公卿が、長州に向かって都落ちをした。
公家が地方に出ていくのは珍しい事であったので、浮世絵師が版画に描いて、それを売り出した。
この事件は一種のクーデターであり、「8月18日の政変」と呼ばれる。
七卿落ち
天誅組の蜂起を幕府は乱と見做し、27日に諸藩兵を使って壊滅した。
しかし、天誅組の行動は討幕行動の先駆けとなった。
10月には但馬で、生野の変が起きた。
平野国臣らの攘夷過激派が公家・沢宣嘉を推し集まったが、長州の脱藩者も加わっていた。
出雲大社上官・富村雄は岡山の剣道道場で副師範を勤めたことがあった。
〔斎木雲州著『出雲と蘇我王国』参照〕
彼は岡山道場の弟子や、丹波篠山の出雲忍者衆を連れて参加した。
しかし、この倒幕行動は勝ち目がないと判断し解散した。
豪農出身の中島たちは農民たちを動員し、生野幕府代官所を占拠し、年貢半減令を布告した。
しかし、彼らは2日後に壊滅された。
生野の変は失敗したけれども、薩摩の西郷と大久保はこのころ倒幕方針を確定した。
そして出雲出身の富村雄を、仲間に引き入れた。
3人はここで、強固な三者の誓約を行った。
その誓約を「敬天愛人」とした。
「敬天」は儒教の精神のように見えるけれども、西郷は「天皇制を意味する」と語った。
「愛人」は民主主義だとした。
明治の革新は、この二つを目的とする、と3人は誓った。
大名たちは徳川家を弱体化し、大名たちの共同政治を考えていたけれども、我らはその先までの社会変革を進めると決意した。
そこで西郷は「敬天愛人」の言葉を横書きで墨書して、富村雄に渡した。
敬天愛人の書
富村雄は、古代出雲王国の王家出身であった。
富王家は奈良時代に出雲大社と建設し、大社の社主と筆頭上官の地位に就いた。
また御師としても、各地を回った。
彼は岡山の剣道場だけではなく、中国地方や薩摩や宮崎にも影響力があった。
さぼ