島津久光は兵力を持って江戸に下り、7月には徳川慶喜の将軍後見職・松平慶永(よしなが)の政事総裁職の登用が決まった。

 

このことは武力を幕府が握っているけれども、形では朝廷が上になり、政策を指令する時代になったことを意味した。

言い換えれば、政治の重要事項は京都で決まることとなる。

 

京都の治安を守るために、幕府は新しく京都守護職を置き、会津藩主・松平容保を任命した。

 

慶喜と慶永のもとで、文久の幕政改革が行われ、隔年であった大名の参勤交代が3年に1回となり、妻子の帰国が許された。

 

要求実現が叶った久光率いる薩摩藩士の行列が、意気揚々と帰国した。

その途中、神奈川近郊・生麦村を通るとき、馬上のイギリス商人とすれ違った。

 

行列に下馬しない商人は非礼だ、と感じた薩摩の藩士が惨殺した。

これは生麦事件と呼ばれ、国際問題となった。

 

 

 

生麦事件の図〔『The Thistle And The Jade』掲載 浮世絵師・早川松山 作〕

 

 

薩摩藩が政治の主導権を握ったことに、長州藩はショックを受けた。

京都の長州藩邸に、藩主が重臣を集め、御前会議が開かれた。

 

木戸孝允と周布政之助が中心となり、今までの航海遠略策をやめ、孝明帝の攘夷政策に合わせることを主張し、藩主に認められた。

長州藩の変わり目の早さに、他の藩は驚いた。

それは「破約攘夷策」と呼ばれた。

 

競争心と自尊心の強い長州藩は、薩摩の真似を始めた。

木戸孝允と久坂玄瑞が指揮して天誅を行い、朝廷内部に親長州派を作った。

 

 

 

木戸孝允と久坂玄瑞

 

 

 

1862年末にできた国事御用掛には、上級貴族をはじめ29人が任命されたが、公武合体派と尊王攘夷派との衝突の場となった。

長州派は即時攘夷を幕府に求め、公武合体派は将軍の上洛を求めた。

 

薩摩派の近衛家が関白を辞職し、長州派の鷹司家が関白に就任した。

勅使・三条実美が江戸に送られた。

 

勅使・三条実美の提言を受け、将軍・徳川家茂は上洛を了承し、翌年3月に家茂は京都二条城に入った。

後見職の徳川慶喜と総裁職・松平慶永も京都に滞在した。

 

長州藩士の天誅は薩摩攻撃にも使われ、長州上関に寄港していた薩摩商船の船長も襲われ、天誅と書かれて、その首が晒された。

薩摩藩の怒りは長州藩に向けられ、薩摩藩の攘夷派は公武合体主義に傾いた。

 

尊王攘夷派公家が、関白に攘夷実行の決定を迫ると、加茂神社と男山八幡神社への攘夷祈願の行幸を、長州藩が建議し実行された。

 

京都では、浪人による暗殺事件が続いた。

京都守護職は民間の武力団体に取締りを委託した。

彼らは新撰組と自称した。

 

 

 

斉藤一〔新撰組三番隊組長 75歳〕

 

 

 

尊攘派の運動に屈して、攘夷決行の期限が5月10日と決まった。

その夜、下関海峡で尊攘派草莽が、アメリカの商船に砲撃を加えて大破させた。

 

6月1日には、アメリカの軍艦が長州藩海軍を壊滅させた。

6月10日にはフランス軍艦の陸戦隊が、前田村を焼き尽くした。

正規の藩兵は、身分の低い人たちが住む農村を、守ろうとはしなかった。

 

呼び出された高杉晋作は、武士と庶民混成の有志の「奇兵隊」を結成した。

奇兵隊は藩の常備軍扱いとなり、ゲベール銃が貸し出され月俸が与えられた。

 

 

 

長州奇兵隊の隊士〔一部〕

 

 

 

身分差別の時代に、武民混成の軍隊が認められたことは、画期的な現象であった。

この軍隊が、明治維新の市民革命的な要素の、先駆けとなった。

 

7月には生麦事件の報復として、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に現れ、薩摩の艦船を討ち沈め、艦砲射撃で集成館などの工場を破壊した。

 

薩摩藩が備えた砲台からの射撃で、イギリス艦隊の旗艦などが損害を受け、イギリス艦隊は自ずから退去した。

これは、薩英戦争と言われる。

 

 

 

薩英戦争

 

 

 

薩摩はイギリス大使に、10万ドルの弁償金を払って、生麦事件を解決した。

この戦いで薩摩志士たちは攘夷政策を改め、倒幕に目的を変えることになる。

 

さぼ