1862年2月には和宮が関東に下り、江戸城で婚儀がおこなわれた。

その実務を行ったのは、関白の九条家であった。

 

幕府は威信を取り戻し、朝廷では幕府協調の九条家側の勢力が増した。

長州藩も幕府に接近し、長州藩直目付長井雅樂(ながいうた)が藩主に建白した『航海遠略策』で財力を強めつつあった。

長井の航海遠略策は、「外人を斬るなどの行為は小攘夷と呼ぶべき蛮行であり、むしろ積極的に開国を行い、進んだ技術を学び、日本の国力を上げて諸外国と対等に渡り合うべきである」とする大攘夷思想とも言うべきものだった。

 

 

 

長井雅樂肖像画〔文化遺産オンライン〕

 

 

 

島津久光は京都出兵の考えを持っていた。

しかし薩摩藩の尊王攘夷派は、久光の尊王主義以上に過激な者たちがいた。

 

彼らは勝手に、倒幕運動を始めようとした。

久光は、彼らに誠忠組〔精忠組〕の名を与え、大久保利通に彼らの突出を抑えさせた。

 

大久保は御勘定方小頭の役になっていたが、上級家臣の小松帯刀と共に小納戸役〔財政担当〕に異例の抜擢となった。

 

上洛の準備を、大久保にさせた。

誠忠組から西郷復帰の声が出たので、久光は1859年に西郷を奄美大島から呼び寄せた。

 

志士たちが突出しないよう抑えるために、西郷を先に出発させ、下関で待つよう久光は命じた。

1862年3月中旬に、久光は1,000人の兵を率いて鹿児島を出発した。

 

九州や西日本各地の草莽(そうもう)たちも、それに合わせて京都に向かった。

彼らの中の平野国臣や真木和泉は、藩を越えて動き出した。

 

 

 

真木和泉〔保臣〕

 

 

 

西郷は久光の意図を詳しく知らずに、下関で待たずに先に進んでいた。

 

久光は怒った。

伏見に着くと、大久保は西郷を探した。

西郷は見つかったが、彼は自分で倒幕計画をたて、それに志士たちを誘っていた。

 

大久保が変更を説得したが、西郷は聞かなかった。

久光は西郷を捕縛し、再び流刑を命じた。

今回は遠方の徳之島に流し、さらに沖永良部島に送り座敷牢に入れた。

 

各地の勤王の志士たちが計画をたて、京都に勤王の志士を集め、諸侯にも参加を求めて、尊王倒幕を開始しようと動いていた。

 

その連中が伏見の船宿・寺田屋に集まっていた。

久光は薩摩藩の者を引き戻すように誠忠組に命じた。

 

誠忠組が寺田屋の連中を早まらぬよう説得したが、聞き入れないので、「上意討ち」と呼んで有馬新七ら8人の薩摩藩士を斬った。

他藩の者は捕らえて、各藩に送った。

これは寺田屋騒動と呼ばれている。

 

ちなみに、幕末に起きた二つ目の寺田屋事件は、寺田屋騒動からおよそ4年後のこと。

慶応2年〔1866年〕1月23日、京での薩長同盟の会談直後に薩摩人として寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が暗殺しようと襲撃した。

 

久光は京都の薩摩藩邸に入った。

そして親戚の公卿・近衛家を通じて朝廷を動かし、幕府内の一橋派の復権を計ろうとした。

 

この兵力を動かす政略は、一種のクーデターであり、幕法に違反していた。

しかし将軍の御台所が島津家出身であったため、大目に見られた。

 

ところが朝廷では関白九条家の支配が優勢で、近衛家の意見は通らなかった。

まず九条家の弱体化を計らねばならなかった。

 

その仕事は近衛家に頼まれ、誠忠組が行った。

京都では天誅という暗殺と脅迫がしきりに起きた。

九条家の家臣・島田左近は、安政の大獄や和宮降嫁で暗躍した。

 

それで島田が襲われ、彼の首は四条大橋に晒された。

岩倉具視邸には、幕府派浪士の片腕が投げ込められた。

 

かつて幕府との協調策を進めた公家の久我や岩倉は、「辞官落飾(らくしょく)」〔引退と出家〕の処分を受け、朝廷から追放された。

 

洛北に隠された岩倉具視は、皮肉にも尊王の志士からの暗殺を逃れ、のちに活躍することになる。

それは薩摩の西郷が流刑になったため、幕府の隠密による暗殺を免れたのと似ている。

 

 

 

幕府の隠密 江戸城御庭番衆御頭・四乃森蒼紫

〔るろうに剣心-明治剣客浪漫譚〕

 

 

 

京都滞在中の久光は、朝廷の議奏〔天皇に政務を上奏できる太政官〕と会見し、江戸へ勅使を派遣することを求めた。

安政の大獄以来、処罰されたままの近衛忠煕(ただひろ)らを赦免すること、一橋慶喜と松平慶永の登用を求める勅命が持参されることになった。

 

5月には九条関白は罷免され、近衛家が関白になることになった。

 

さぼ