天保の改革の時に、幕府は雄藩抑圧のために、西国専売取締令を出したことがあった。

開国通商条約の勅許の問題が起きたときに、長州は新しい時代が来ると感じ、まず経済力を増加しようと計った。

西洋式大型船・丙辰丸を製造し、国内貿易を行った。

それには高杉晋作も乗っていた。

 

 

 

「丙辰丸製造沙汰控」〔山口県文書館蔵〕

 

 

 

幕府は横浜村を貿易の港として外国に使用されたが、その地域は囲われていて、日本人の立ち入りは禁止された。

 

その様は、鎖国時代の長崎の出島に似ていた。

出島以外に外国人が出ることは、原則として禁じられた。

それは、キリスト教の禁止と幕府の貿易独占のためであった。

 

清国が開国した時のシャンハイの土地を外国に貸し付けた。

その租界には中国人の権利がなく、中国人の人権が無視された。

 

日本は港の土地を無料で外国に貸し、外国人の横暴を防いだが、自国商人の利用を禁じた。

五雲亭貞秀/歌川貞秀画・横浜港の異国人貿易の版画〔1861年〕のように、外国船だけが利益を得ていた。

 

 

 

五雲亭貞秀/歌川貞秀画・横浜交易 西洋人貨物運送之図

 

 

 

そこに木戸孝允が潜入調査し、木綿製品を交易すると利益が上がると政務方役人・周布(すふ)政之助に連絡していた。

 

1861年に藩主側近の長井雅楽(うた)の航海遠略策を、長州藩は幕府と朝廷に示し、海外貿易進出を提案した。

その結果、日本商人の貿易が許され、横浜三渓園を作った原三渓のような大商人が発生した。

 

 

 

三渓園〔横浜市中区〕

 

 

 

山内容堂は後藤象二郎を登用して、富国強兵策を推進させた。

そして有力大名と見なされた。

容堂は宇和島藩主の伊達宗城と松平春嶽の協力を得て、公武合体策を唱えた。

 

井伊大老のなき後、老中首座に安藤信正が就任した。

1860年に幕府の威信を取り戻すために、関白九条家を通じて天皇家に、将軍家茂と天皇家の婚姻を求めた。

公武合体政策である。

尊王の志士たちの社会改革を中止させようとする最初の方策が、この「公武合体策」であった。

 

幕府内部には、尊王主義者の増加を防ぐために、公家の弱体化をはかる考えの者もいた。

幕府は上級公家の鷹司家や近衛家・三条家を、処罰する方針を進めていた。

 

天皇は公武合体には、乗り気ではなかった。

将軍の嫁に天皇関係の娘を与えることは、幕府に人質を与えることでもあった。

しかし幕府の要請にこたえるよう建言したのは、下級公家の岩倉具視であった。

 

今は公家勢力が、幕府の権力に勝てる力はない。

だから幕府の公武合体策に乗って、時間稼ぎをするべきで、そのうちに尊王派が有力になる、と説いた。

 

7・8年後に、遅くとも10年以内に、幕府が攘夷を行うという条件付きで、孝明帝は公武合体を承認した。

その結果、帝の異母妹・和宮が、江戸城に入ることになった。

 

 

 

和宮親子内親王

 

 

 

1862年〔文久2〕に、宇都宮藩の家老・戸田忠至(ただゆき)は大和や河内・和泉・摂津の天皇陵を調査し、京都の山陵御用係に出向いて改造要請の書面を提出した。

 

当時、天皇陵は荒れ果てていて、形が分からない陵墓も多かった。

公武合体の時代で、天皇家に良く思われたい幕府は、その改造費用として7万3,814両を支給した。

 

このころ、前方後円墳の言葉ができたので、その形に合わせて古墳が改造された。

大阪府堺市の大仙陵古墳〔仁徳天皇陵〕も、以前は今の形より狭かった。

 

だから古墳の航空写真を見て、今の御陵の形が古墳創造時の形だと錯覚すると、正確な古代史を見誤ることになる。

右差し 巨大古墳群の築造

 

 

徳川家では、王陵造営のため続いて出費がかさんだので、後世の人が想像するような徳川埋蔵金は残らなかった。

 

諸国の尊王攘夷派の志士たちは、公武合体に怒った。

倒幕をおこない幕藩体制を壊すことで、新しい社会ができると望んでいたのに、望みが失われた。

 

朝廷は幕府の陰謀に負けたと感じた水戸藩士たちが、1862年1月に江戸城坂下門で老中・安藤信正を襲って傷つける事件〔坂下門外の変〕が起きた。

 

 

 

安藤信正

 

 

 

桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。

この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士たちはこれに反発、信正らに対し憤慨した。

  

1860年〔万延元年〕7月、6人の水戸藩士らは連帯して行動することを約し、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。

しかし、長州藩内では長井雅楽の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。

長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。

 

さぼ