幕府は1860年(万延元年)になって、ようやく金貨の改鋳〔万延の改鋳〕を行った。

金貨の質が落ちたので、国内の物価が暴騰した。

 

物価暴騰の様子を書いた版画瓦版も売られた。

幕府の開国政策の不手際を肌で感じた人々の中に、攘夷運動が高まった。

 

1860年3月には、水戸藩士17人と薩摩藩士1人が、桜田門外で井伊大老を殺す事件が発生した。

 

 

 

桜田門外の変

 

 

 

登城する総勢60名の井伊直弼の一行に、僅か18名で襲撃し短時間のうちに暗殺に成功したのは、当時は雪が降っており、刀が錆びないよう布袋に収めて紐で縛っていたため、突然の襲撃で応戦が間に合わなかったからだと言われている。


 

 

井伊の首級をあげた薩摩藩士の有村次左衛門

 

 

 

土佐藩では1861年に、尊王攘夷を主張する勤王党が成立した。

15代藩主・山内豊信〔号は容堂〕は、吉田東洋を抜擢し、仕置役に任命して藩政改革を行わせた。

彼は岩崎弥太郎や板垣退助を使って、軍備を増強し洋式化した。

 

土佐勤王党の約200人の盟主が、武市半平太であった。

彼はその年に江戸に滞在し、長州の久坂玄瑞と薩摩の樺山資之と会談した。

 

そして、志士三藩〔薩長芸〕盟約を結んだ。

盟約は、それぞれの地で尊王攘夷の藩論を確立し、協力して新しい時代をつくる約束であった。

 

さぼ