1853年6月に、4隻のアメリカ艦隊が江戸湾に侵入し、大砲の空砲を打ち鳴らした。

江戸湾岸の人々は驚き、大騒ぎとなった。

 

その後、艦隊は浦賀沖に停泊し、江戸幕府に会見を要求した。

そしてアメリカのペリー提督は、日本に開国を要求した。

 

これは大事件なので、浮世絵版画に描かれ、江戸や関東の人々が買い求めた。

浮世絵では異人の顔の特徴が、やや大袈裟に描かれている。

 

 

 

ペリー 〔1854年頃〕

 

 

 

それほど異人は珍しかったし、この時は恐れられた。

幕府が開国を断ると、艦隊は姿を消した。

 

翌年1月には、ペリーは2倍以上の艦船で押し寄せ、江戸湾内でデモ航行を繰り返し、横浜村沖に9隻のアメリカ艦船が停泊した。

 

 

 

浦賀沖の米艦隊

 

 

 

ペリーとの交渉の結果、3月に日米和親条約が結ばれた。

その内容は、下田と函館〔箱館〕2港の開国であった。

 

1857年には日米修好通商条約案が、アメリカ領事・ハリスと幕府の無能な役人との交渉により合意された。

 

それは神奈川〔横浜〕・兵庫〔神戸〕などの5港が開かれるものであったが、不平等条約であった。

関税自主権がなく、治外法権を与えるものであった。

 

 

 

幕府使節団を迎える米国大統領〔日米修好通商条約〕

 

 

 

その頃、中南米のメキシコやペルーで銀鉱が多く開発され、銀価が暴落していた。

外国事情にうとい幕府は、それを知らなかった。

 

日本国内の金貨と銀貨の価値を、以前のままに放置して貿易をした。

その結果、日本国内の金貨が損害を受け、8割の金貨が外国に流出した。

 

その影響で物価が暴騰し、国内に幕府批判の空気が高まり、諸藩では尊王攘夷の動きが増していた。

 

自信を失った幕府はペリー来航の時に、珍しく有力大名たちの意見を聞いた。

また、次の条約を天皇に承認してもらう方針をかためた。

 

その時の有力大名とは、薩摩藩主の島津斉彬や福井藩主の松平春岳、土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城たちであった。

 

彼らは開明的思想の持ち主であった。

13代将軍・家定は病弱で政治は老中任せで、雄藩協調策ををとっていたが、後継ぎがなかった。

 

幕政の改進を考える島津藩などの有力大名たちは、御三家で優秀な一橋慶喜を次期将軍に推す運動をはじめた。

 

同じく改革派の老中・阿部正弘は、島津斉彬の養女・篤姫を、将軍・家定の御台所に入れることに成功した。

 

幕府内の譜代大名たちは、雄藩大名たちが台頭し、政権を奪うことを警戒した。

参勤交代は外様大名をしばるものと思われているが、実際は逆になっていた。

 

大名の奥方を人質にとるだけなら、江戸内は安全である。

しかし参勤交代で外様大名の武士が多く江戸に住むようになると、外様の武士団によるクーデターが何時でも起きる危険性があった。

 

有力大名が陰謀を企むのを探知するために、大名家近辺に隠密を徳川家は配置した。

江戸の火消しや商人の中にも、徳川家から隠密役を頼まれた者がいた。

浮世絵師として有名な歌川広重の家系も、隠密役であったことが知られている。

 

江戸城大奥はハーレムのようなイメージだが、女中の仕事だけなら、あれほどの多くの女は必要がない。

 

将軍の近くに、武士や男の町人が出入りすると、将軍が暗殺される可能性がある。

多くの奥女中の存在は、暗殺者から将軍を守るため、女たちの防壁の役を果たしていた。

 

江戸期には、女の婚期は17・8歳であった。

それを過ぎると、年増と呼ばれた。

その名は、売れ残りの意味も持っていた。

 

いつの時代でも、豪族の娘は贅沢で高慢ちきのため、売れ残るものが多かった。

将軍が彼女らを奥女中に雇うと、大名や旗本は喜んだ。

 

各豪族は娘を1人以上雇うことを将軍に要求し、雇われることを豪族の権利のように考えていた。

江戸城内の奥女中は、大名たちの人質の意味もあった。

 

だから大名の奥方の江戸滞在は間接的な人質で、奥女中は直接的な人質であった。

徳川幕府の300年の平和は、この2種の人質の産物だと言っても過言ではなかった。

 

奥女中になった大名の娘は、実家の大名を有利な役につけるよう将軍に話したり、実家大名の持つ政策を将軍に吹聴したりして、少なからぬ影響を幕府に与えたこともあった。

 

将軍の子を産むと実家が栄えるので、美人の娘を奥女中に送る豪族もいた。

それら出しゃばり奥女中をまとめるのは、難しい仕事であった。

 

島津家や分家の娘が数回も将軍家の御台所に迎えられたのは、有力大名の威力で、奥女中を取り締まる意味もあった。

 

さぼ