関ヶ原合戦で、伊達政宗は徳川方に付き、また大阪冬の陣の功績もあった。
それで家康から伊予国に領地が与えられ、政宗の長男・秀宗は宇和島伊達藩10万石の領主となった。
7代の宇和島藩主は子に恵まれなかったので、3000石の旗本・山口家から養子を迎えた。
後者が、8代伊達宗城(むねなり)であった。
聡明さに加えて蘭学を学んだので、早くから開明的な思想の持ち主であった。
伊達宗城
伊達政宗は、ローマのバチカンまで使節を送ったことが知られている。
それで伊達藩では、伝統的に海外について関心が深かった。
幕府の長い鎖国と、その後の異国船打ち払い令には、批判的であった。
陸奥国出身の高野長英が長崎で蘭学を学び、江戸で蘭医となった。
渡辺崋山らと尚歯(しょうし)会を作り、幕府の攘夷政策を批判した。
高野長英
高野長英は1838年に『夢物語』を書いたが、幕府は海防などのしっかりした対応をしなかった。
しかし1839年に幕府はいわゆる「蛮社の獄〔鎖国政策を批判した言論弾圧事件〕」を行い、長英は投獄された。
1844年にオランダ国王が、江戸幕府に開国勧告書を送った。
それには4年前のアヘン戦争で中国がイギリスに敗れ、中国が開国し多くの賠償金を払い領土を割譲したことが書かれていた。
アヘン戦争〔イギリスの軍船に吹き飛ばされる清軍の兵船〕
高野長英は脱獄し、各地を転々としていた。伊予国の二宮敬作は長崎のシーボルトが作った鳴滝塾で高野長英と同門であったから、高野は二宮を頼って伊予に来たらしい。
鳴滝塾跡〔長崎市〕
彼は宇和島に1848年に来て、翌年まで本を書いていた。
藩主の伊達宗城は町を出て山中に高野を招き、こっそり話を聞いたという。
高野は砲台の設計をおこない、宇和島には続けて3ヶ所の砲台を構築した。
樺崎砲台跡〔愛媛県宇和島市〕
さらに藩主宗城は二宮を通じて、大阪の適々斎塾にいた長州出身の蘭学者・大村益次郎を宇和島に招き、8年間にわたり蘭学を教えさせた。
さぼ