1778年にロシア船が、蝦夷地に来航して松前藩に通商を求めた。
林子平が「海国兵談〔海防の必要性を説く軍事書〕」を刊行した。
翌年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航した。
林子平
1797年にはロシア人がエトロフ島に上陸した。
翌年エトロフ島に、近藤守重が「大日本恵土呂府」の標柱を建てた。
翌年にエトロフ航路が開かれた。
そのころ本居宣長が「古事記伝」を書き、国学が盛んになった。
平田篤胤は秋田藩出身であるが、脱藩後蘭学を学んだ。
平田篤胤
篤胤は1811年に「古史成文」書き、和学講習所を通じて平田国学を興した。
この平田国学は尊王思想を理論化し、下級武士や農家の庄屋層に広がった。
これが幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。
さぼ