吉田松陰は、半農半士の下級武士の家に生まれた。
彼は兵学者になったが、当時ヨーロッパ諸国が東洋諸国に帝国主義的侵略を行っている情勢を調べ、それを黙視できなかった。
吉田松陰
脱藩し佐久間象山に師事し、陽明学〔知識と実践の一体化〕を学んだ。
象山は江戸に象山院を造り、勝海舟や坂本竜馬らを育てた。
象山は開国論をとなえ、攘夷派に暗殺された。
1854年にペリーの黒船が下田港に停泊している時、吉田松陰は海外渡航を企てたが失敗した。
幕府により入獄された後、長州に送られ野山獄に入れられた。
彼は獄中でも、教育を止めなかった。
囚人の全てに教育を与えたことが、注目された。
野山獄跡〔萩市〕
藩主は特別の配慮を行った。
叔父の家に移された松陰は、幽閉の身のまま松下村塾で弟子たちを教育した。
彼は幕藩体制の社会を変革して、四民平等の自由な社会をつくる必要を説いた。
陽明学の影響で革命的志を持ち、実行することの大切さを教えた。
この松下村塾の弟子たちの動きが、明治維新の震源地となった。
彼らの動きがなければ、明治維新は進まなかった。
弟子の中には、高杉晋作や久坂玄瑞・前原一誠・木戸孝允・伊藤博文らがいた。
彼らの多くは、下級武士か半農半士の郷士であった。
以前は政治を動かすのは高級武士だと考えられていたから、松下村塾の弟子たちが明治維新を動かしたことは、維新がただの政権交代ではなく、革新的な変革であったことを示している。
中でも伊藤博文は、生家を見ても分かるように、百姓屋敷にも似た藁屋根の貧しい家の出身であった。
幕末には工業発展による市民階級は少数であるが、明治維新は西洋の市民革命に似た階級変革の政変だった。
松陰は社会の核心のために、革命的行動の必要性を説いた。
その後1851年に水戸を訪れ、会沢正志斎(あいざわせいしさい)から王政復古の教えを受け、尊王の志士として活動した。
会沢正志斎
さぼ